ルル・ストリート

いろんなことを書いていきたいです。

溝口的登場人物たちの身振り

 立つこと。立ち続けること。溝口的登場人物たちにとって、それはとてつもなく困難である。例えば「雪夫人絵図」の木暮実千代が、足元がおぼつかずふらふらと芦ノ湖畔のホテルへ向かう姿を見ればそれは頷けるはずだ。彼女はその足取りのまま、テラスに座る。すると、カメラは雪夫人から、彼女に水を持って来ようとするそのホテルのボーイを追いかけ、右へパンする。そしてボーイが水を持ってきて、またカメラも彼を追いかけ左へパンする。しかし、カメラが再びテラスの席をとらえるとすでにそこには木暮実千代はいない。彼女はどこかへ去っていったのだ。ゆえに、われわれが眼に焼き付くのは、彼女の座り続けた姿だけである。木暮実千代が去っていったのは、芦ノ湖へ身を投げるためだとすぐあとでわかるのだが、しかし、われわれはそれを見ることができないのだ。ふらふらと歩き、テラスの席に座り、そしていなくなる。そういった、ほとんど亡霊のような木暮実千代をわれわれはただ見るだけである。

 芦ノ湖へ身を投げること。それはまた、地から離れることでもある。つまり、立つための地から、立つことができない水のなかへ身を投げることである。それは「山椒大夫」の香川京子も同様で、彼女もまた湖へ身を沈める。ここで注目すべきなのは、彼女は足袋を脱いでいることだ。地に立ち歩くための道具である足袋を脱ぐことは、地に立つことをやめる行為である。「楊貴妃」でも京マチ子は自殺するときに足袋を脱いでおり、「山椒大夫」の香川京子と共通している。ちなみに、母親を演じる田中絹代は、売春宿から逃避しようとした罰として業者に足の筋を切られるのが描かれているのを見逃してはならない。また、「近松物語」でも、香川京子と、長谷川一夫が湖へ身投げしようとするのが描かれている。そのさい足をひもで縛っているのも見逃してはならないだろう。

 溝口の映画では、女性が立っている姿で終わるのが少ないように思われる。「折鶴お千」では、山田五十鈴が発狂し、病院のベッドで横たわって映画が終わるし、また、「祇園の姉妹」ではこれもまた山田五十鈴がベッドに横たわり、あの物質的ともいえるような生々しい悲痛な叫びで終わっている。「滝の白糸」でも入江たか子は法廷の席に座ったままで終わり、「残菊物語」でも森赫子は病床に倒れて映画が終わっている。最後の、横たわる森赫子と船首に立ちお礼参りをする花柳章太郎という並行モンタージュは、立てない者と立つ者の対比のモンタージュであるだろう。男に、そして家父長制度に虐げられ、淪落し続ける溝口的女性たちのその横たわる姿は、敗北の姿勢であるのだろうか。そもそも、溝口が晩年まで徹底的に取り上げ、描き続けてきた娼婦という職業は、男と寝ることで利益を得る仕事である。「夜の女たち」でも「噂の女たち」でも「赤線地帯」でも女性たちは立たない。

 しかし、横たわることなく、なにがなんでも立とうとする女性もいる。その代表例が「雨月物語」の田中絹代であるだろう。侍に身ぐるみをはぎとられ、槍に貫かれるものの、泣き叫ぶ子供を抱えながらなんとか近くにあった木の枝を杖にして家に帰ろうとするのだ。結局彼女は死んでしまうのだが、しかし、霊となって最後まで子供を家に送り届け、夫である森雅之を出迎える。彼女の立ち続けようとし、そして歩き続けようとする意志が彼女をそういった例外的な役割を演じさせたのだ。また、先述した「山椒大夫」の田中絹代も、足の筋が切られても、なんとか「雨月物語」同様木の枝を杖にして海まで行き、子供たちの名前を叫ぶ彼女もまた立つことをやめない。だからこそ、息子である花柳喜章に出会えたのだ。また、興味深いのは「近松物語」の先述した香川京子花柳章太郎の身を投げようとする場面での、花柳の香川に愛の告白が彼女の足にすり寄せながら行ったことだ。その後香川は、死ねんようになったとつぶやく。これは果たして花柳の告白がそうさせたのだろうか。むしろ、今まで続けてきた考察から考えれば、足にすりよせる行為が彼女をそうつぶやかせたと言うべきではないか。

 ところで、横たわることが敗北の姿勢であると言ったが、しかし松浦寿輝は、「祇園囃子」では、横臥こそが強者の姿勢になっていると指摘している。彼は、溝口はひたすら権力空間で必ず弱者の地位に置かれる力学的存在としての女に関心を持ったにすぎないとし、「横臥の姿勢こそが存在に権力を賦与するのであり、周囲の人間はそれに屈しないわけにはいかないのだ。」と言う。この場合の権力を持った強者とは、浪花千栄子河津清三郎や小柴幹治などの虐げる側である人間たちのことで、むしろ虐げられる側の木暮実千代若尾文子らは横臥の姿勢でいる彼らをむしろ見下げるような姿勢になっており、高い位置と低い位置の構図が単純な上下関係になっているわけではないと松浦は言うのだ。

 溝口のこの立つことと横たわることの身振りに注目したのは松浦だけではない。1992年のユリイカの溝口特集のなかで、田中聡志もこの身振りについていくつか述べている。松浦が溝口の映画を権力空間として捉えていたのに対し、田中は商業的空間として溝口の映画を捉えている。「山椒大夫」の人買いによってさらわれる花柳喜章や香川京子田中絹代を例に挙げ、「つまり彼らは商品として売買と交換の場に引きずり込まれてしまうことになる。商品に成ること、あるいは貨幣と成ること。そうした要請が溝口の映画の登場人物たちを衝き動かしていると想像してみること・・・・・・」。商品、あるいは貨幣となった登場人物たちはむりやり商業的空間に参入させられるのである。そうした商業的空間で運動をやめること、つまり貨幣と成った登場人物の流通が止まることは死を意味すると彼は言う。田中は歩くことが貨幣としての流通であり、止まることが貨幣としての死であると、溝口的登場人物を捉えているのである。

 松浦も田中も、身振りから溝口の映画の空間性を論じている。溝口の映画は、政治的であり経済的な世界なのだということだ。ただ、松浦は姿勢にだけ着目していて運動を見ていない。また田中の商業的空間と捉える思考も、少々登場人物の感情のなまなましさを無視している気がしないでもない。貨幣として見るのは面白いが、そういったモノに還元できるほど、溝口が演出する人間は簡単ではないと思う。

  いずれにせよ、立つこと、歩くこと、そして止まること、横たわることで主張する登場人物たちの強い感情。そうした体全体で表されるエモーションを残酷にも役者から無理やり出させようとするのが溝口的演出なのだ。私は登場人物たちのエモーションを、権力空間でも商業的空間でもない空間のなかで捉え、考えてみたいとは思っているが、なかなか難しく思うようには進んでいない。