ルル・ストリート

いろんなことを書いていきたいです。

増加―クリストファー・ノーラン「インターステラー」―

 先日豊島園のIMAXシアターで「インターステラー」を見てきた。そのさいある気になった点がありそれがうまく言葉に出来なかったので昨日立川にある普通のシネコンに行きもう一度見てきた。理系でもないしSF小説も読まない人間なので、物理学や量子論の専門用語は理解するのが難しく科学的な整合性を検証するのも無理だし、またSF的なガジェットの評価も私には荷が重すぎる。さらに上映時間が3時間近いので実際二度見ても映画をすべて理解するのはとても出来なかったのだが、しかし映画のある構造というかパターンみたいなものを認められたのでそれを今から書いていこうと思う。

 まず、主人公であるクーパーの義父の「産めよ増やせよ」のセリフを思い出してほしい。このセリフは砂嵐によって食糧難と環境破壊が起こり、その影響で人類やその他植物などの生物が衰え弱っていくのをどうにかしなければならないという状況で、人類が存続するためには子孫の繁栄と食料の確保であることを意味している。人口の減少と畑の数の減少から抗うために人口と畑を増加しなければならないのだ。クーパーの宇宙の旅の目的は人口や畑が減少し続け最終的に人類が滅亡するというシナリオを変えるために新たに居住が可能な星を探すことだ。減少から増加へ。それがこの映画の主題と言っていいかもしれない。このパターンは物語のレベルでも、映像のレベルでも、意味のレベルでも認められる。

 人類が存続するためには人口と畑を増加しなければならないと言った。だが増加しなければならないのはそれだけではなく、次元数も増加しなければならない。次元の数の増加が人類を救う道なのだ。それはダークホール特異点に向かい未来の人類が創造した五次元世界に到達したクーパーが、娘のマーフィーに量子データの情報を伝達し、スペースコロニーを建設させ、地球の人々が救われることからもわかる。人類はいずれ五次元世界を創造しなければならないのだ。しかし、増加することはなにも人類に幸福をもたらすだけではないことは映画を見ればわかる。作中で増加するのは次元だけではない。重力の重さも増加する。ミラー博士が滞在している水の惑星の重力は地球の重力よりも重く、そのため時間の進みが遅い。クーパーたちはその星で津波に襲われ隊員一名を失い、さらにミラー博士は死んでいることがわかり、またとても人類が住めるような場所ではないことがわかるが、しかしエンジン回復のために約45分滞在しなければならなくなる。その星での一時間は地球時間の何年分であり、結果的に時間を無駄に浪費してしまうことになってしまう。いつ人類が滅亡するかわからない中で、一刻も早くミッションをクリアしなければならないが、重力の重さのせいで時間を大幅にロスしてしまうのだ。マーフィーが体験したポルターガイスト現象にも増加のパターンが認められる。マーフィーは本が本棚から落ちるのを幽霊の仕業だと思い込んでいたが、物語が終盤に差し掛かるとそれは幽霊ではなく父クーパーであることを知る。幽霊という虚体から父親という実体へと、存在者の質量が増加するのだ。

 このように物語のレベルでの増加のパターンを見てきたが、次は映像と意味のレベルの増加のパターンを記述したい。公開後よく比較されるキューブリックの「2001年宇宙の旅」。それは様々な点でこの映画を思い出さずにはいられないからだろう。実際ノーラン本人も「2001年宇宙の旅」から影響を受けていると公言している。私は「インターステラー」で描かれる時空横断は「2001年宇宙の旅」のスターゲイトを思い出さずにいられなかった。この映画で主人公はスターゲイトを通じて時空を横断するが、その映像は抽象的と言うか観念的なものに仕上がっている。対して「インターステラー」はアインシュタイン一般相対性理論に基づいてワームホールブラックホールをほとんど正確に映像化していると、製作総指揮を務めた物理学者キップ・ソーンが特典映像で語っている。つまり観念的な映像から、科学的整合性のもとにより具体化された映像へとその映像の具体度の増加が認められるのである。また意味のレベルでは、映画の序盤、クーパーと娘のマーフィーと息子のトムを乗せた車が走っていると突然上空からインド空軍のドローンが飛んでくるというシーンは、私はヒッチコックの「北北西に進路を取れ」のケーリー・グラントが畑の上で軽飛行機に追いかけられるシーンを想起させた。「北北西に進路を取れ」のほうは軽飛行機という乗り物の物語的意味はまったくない。ただ映画を盛り上げるためのマクガフィンである。しかし「インターステラー」のほうには意味がある。つまり、上空を飛ぶドローンを地上に降ろし、解体し部品を農業機械のために使おうとするのだが、この行動はクーパーの関心が空から地上へと移っているという心境を観客に伝えている。さらに、何年も上空を飛んでいたというこのドローンはそのままクーパーのその後に待ち構える運命の隠喩と言えないだろうか。つまり、宇宙(空)へと旅立ち地上(と言ってもスペースコロニーになるわけだが)へ戻ってくる途方もない時間の長さがそのままドローンの飛行時間の長さによって喩えられているのだ。このように畑の上を飛ぶドローンという飛行機は「北北西に進路を取れ」の軽飛行機とは違い意味がある。つまり軽飛行機からドローンへと意味の量が増加し、物語的無意味さは有意味になるのだ。しかし「北北西に進路を取れ」との関連は私の単なる邪推にすぎないことは言わなければならないだろう。

 このように「インターステラー」には増加のパターンが認められる。「インターステラー」とは増加することによって織り成される映画テクストであると指摘できる。これは結局のところ私の思い込みにすぎないかもしれないが、しかし指摘しておく必要はあるだろうと思う。