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停止と移動ー山田尚子「けいおん!」ー 2/2

 3 移動

 

 「けいおん!」には停止というせわしない動作を登場人物が演じるのはすでに指摘した。そうした停止はなにも「けいおん!」を特色づける主題ではないのも先述したとおりである。むしろ停止はどの日常系アニメにも見られる主題なのである。しかしそれにしても、停止が一つの主題となっているのにもかかわらず、彼女たちの歩行ぶりと走行ぶりはなんだろうか。右から左へ、左から右へ、るいは後方から前方へ。前方から後方へと画面を縦横無尽に駆け巡る。そのような運動が第一期、第二期、そして映画に繰り返し反復される。何度も描かれるけいおん部のメンバーの登校や帰宅の場面。第二期の四話や十五話。映画のロンドンへの旅行など。これら数限りない運動を考えれば、「けいおん!」という作品が、退屈した日常描写が描かれたアニメであるとは到底思えない。そこには間違いなく活劇性があるのだ。歩き、走り、そしてときには転んだりする。

 ところで、移動するのはなにもキャラクターだけではない。ライブのために講堂に機材を持ち運ぶ唯や紬の移動を描いた第一期の六話や、部室を掃除することになり、その部室にあった私物や古いギターなどが、彼女たちの家や楽器店に移動している第二期の二話、そして、卒業前なのにもかかわらず、まだ持って帰っていなかった教科書や、律が授業中唯に書いた手紙などが、それぞれのメンバーの自宅へ移動する二十三話などがそれを立証づける。

 このように、個人の移動。けいおん部数人の移動。またはけいおん部全員の移動。物の移動など、様々な相貌を見せる移動だが、そこから、学校への移動。部室への移動。講堂への移動。自宅への移動。楽器店への移動など、そこからさらに分化される。

 言うまでもなく、「けいおん!」という作品は、学校、部室、教室、講堂、唯の自宅など、様々な空間によって世界が秩序付けられている。それゆえその空間に停止するためにはその空間へ向かわなければならない。彼女たちの移動とは、空間と空間をまたぐ移動、つまり空間移動のことだといえる。

 移動は、例えば第一期一話とそれを反復した最終話の唯の自宅から学校へという象徴的な場面を見れば、主題化されているのがわかるだろう。一話は、なにかに気を取られてなかなか登校できない、つまり円滑な移動ができなかったが、最終話での唯は成長し、まっすぐ講堂へと移動することができるようになったという一連のシーンの描写。また、二話の楽器を買うくだりでは、メンバーが待っている場所からはあと数メートルなのに、犬にかまってなかなかそこへたどり着けない。しかし唯の移動はそれだけではないどころか、唯以外の澪、律、紬、梓にも何度も移動するのが画面に示される。

 そのような移動の主題が導入された結果、「けいおん!」は日常系アニメというジャンルから逸脱するようになる。そのほかの日常系アニメにこの主題が導入されているようには見えない。「けいおん!」を簡単に日常系というジャンルにまとめることができないのにはそのためである。さも日常系アニメの代表的な作品であると語られがちだが、しかし「けいおん!」は明らかにほかの日常系作品よりも似ていなく、むしろ例外的な作品であるともいえるのだ。

 しかしだからといって、停止の対義語である移動はその停止の否定を意味しない。移動は停止へ向かうための運動なのだ。また、停止とは「いま、ここ」にいる自分、仲間の肯定の身振りであるということは先述した。つまり、移動とはそうした肯定をするための運動なのだ。彼女たちは肯定するために移動するのである。第一期一話と最終話の唯の、ライブへ向かう移動を見ればそれはうなづけるだろうし、また、物の場合も、古いギターを楽器店へ売りに行くというその移動が、万年、つまり「いま、ここ」の永続性という象徴である亀を部室に停止させる契機となることからもわかるだろう。

3-1 個人的移動



 作品を毎話毎話注意深く見なくとも、各登場人物がせわしなく移動する身振りを演じていることに気付くはずだ。一番興味深い移動は、おそらく部室へ向かう移動であるだろう。ことあるごとに各回それぞれで、けいおん部のメンバーの誰かが、部室へ移動する身振りが画面に示されている。このようなカットは、その人物の部室のなかの不在を明らかにさせる。それにすでに誰かが部室に居るという場合が多いためにその不在ぶりが一層際立つ。先述したとおり、けいおん部にとって家のような空間である部室に居ないということ。そのような異例の事態が「けいおん!」には頻繁に起きる。なぜその人物は部室に居ないのだろうか。その人物が巻き起こすドラマを追い続ければ、その人物はけいおん部というグループから離反してしまっていることがわかるだろう。つまり、けいおん部から離反しているこの心理的距離を、部室との距離という物理的距離に置き換えられているといえる。その人物が不在だったのは、部室とのあいだに距離ができてしまったためである。それゆえに彼女たちは遅れる。わざわざ部室までの距離を移動しなければならないがゆえに彼女たちはほかのメンバーより部室へ入るのが遅れるのだ。

 距離ができるのは、一人だけではない。たとえば、第二期の十七話のように部室が使えなくなり、様々な場所に移動しながらも、練習しようとする回は、けいおん部全員が部室との距離が開く。だがこれは珍しい事態なのだということが作品をよく見ていればわかるだろう。むしろ、全員ではなく、メンバーの数人、または誰かひとりだけが部室との距離が開く事態に見舞われるのが普通なのである。

 もうひとつ指摘しておかなければならないのは、部室との距離ができる者は必ず扉の開閉の動作を演じるということだ。先述した第一期一話と最終話の唯もそうで、ギターを家から持っていくために部室の扉の開閉のカットがあったはずだ。しかし、その後彼女は部室には戻っていない。向かうのは講堂である。では彼女はけいおん部との距離は埋められなかったのだろうか。しかし、講堂の扉の開閉のカットを見ればそれは違うと言えるだろう。このカットは部室からでる唯の扉を開けるカットと対応している。つまり、扉が部室と講堂という空間の同一化の契機として演じているのだ。彼女たちは部室と距離が開くと、必ず扉の開閉の動作を演じる。しかし、唯一の例外が、である。たしかに彼女の扉の開閉の動作はなくはないただ紬はその名前のとおり、メンバーをつなぎ合わせるという、つまり調和役としてのキャラクターとして機能しているため、あまり意味をなさない。それはお茶を注ぐ役を一貫して続けていることからもわかる。そういう役として存在する紬というキャラクターはけいおん部と距離ができないのは当たり前だ。彼女はけいおん部のなかではとても異質な存在なのであるそれに比べて唯、澪、律、梓はとても不安定な存在だといえる。

 まず、この四人の、それぞれ単体での扉を開閉する動作の回数を数えよう。唯の場合、一期が(一話の律に連れられ入ってくる扉の開閉の動作を抜いても)六回であり、ほかのメンバーよりも多い。しかし二期では二十三話だけとたった一回である。映画は一回である。澪の場合は一期は二回、二期は0回。律の場合は一期は一回(ただし、「けいおん!」にあっての扉が、先述した一期一話と最終話での扉と同じように、どの空間にも主題を通底させる機能を有するのであれば、三話での唯の部屋の扉を何度も開閉する動作、そして結局その空間には居続けることがなかった一連の場面での律は、立派にけいおん部との距離ができていることがいえる)、二期は三話だけの一回。そして梓の場合であるが、一期は二回、二期は十一回であり、とくに十六話は四回も扉を開閉する。映画では三回である。

 こうやって見ても、唯が合計八回、澪は合計二回、律も合計二回、梓は合計十六回と、梓の回数がほか三人と比べて突出していることがわかる。とくに二期後半になると、格段に多くなる。それはいったい何故か。第二期は上級生の三年生への進級から卒業までを描いたシリーズである。つまり後半になるつれて上級生の卒業が近くなるということだ。言うまでもなく、梓はひとつ下の下級生であるから、必然的に四人とは別れなければならない。つまり、そこにはどうやっても埋められない距離ができてしまう。おそらく扉の開閉の動作がけいおん部のなかで一番多いのはそのためだ。学年が違うということによって梓は上級生四人とのあいだの距離が必然的にできてしまう。ゆえに彼女は遅れる存在としての意味が強いのである。

 澪と律の移動についてもいくつか述べたい。第一期の四話と六話の部室の扉の開閉の動作を演じている澪を見れば、彼女と部室には距離が開いていることが理解できる。扉を開けて部室に入ってきて、唐突に演奏の特訓のために合宿をすると宣言をする四話での澪はその後、唯、律、そしてそのふたりについていく紬によってなかなか練習ができず悩む。そこには間違いなく三人との距離がある。しかしその回での澪の移動の主題は、最終的にBパートの最後にメンバーとともに入ることになる露天風呂に停止することになりここで克服される。今まで練習を嫌がった唯の、合宿してよかったというセリフによる承認(肯定)により澪の移動の物語は終わりを迎えるのである。そして六話は四話よりも複雑である。まず、停止の章で述べたとおり、学園祭は部室と教室という二つの空間の対立に陥るイベントであるため、学園祭のために練習したい澪はここでは、部室に停止し、一方クラスの出し物のために唯律紬は教室に停止している。であるから部室から距離ができているのはむしろ澪以外の三人のほうだ。しかし、その後三人が部室に戻ってきて練習が再開されたのにもかかわらず、ライブへの不安から今度は澪のほうも部室との距離が開いてしまう。しかし最後は講堂に停止しここでの移動の物語は終わりを迎えるだろう。

 律の場合、第一期十一話、第二期三話で移動する。いささかシリアスに描かれた十一話での律と澪の喧嘩の顛末を思い出そう。練習を中断し部室から出ていった律は、そのまま部室に戻らないどころか、風邪をひいて学校まで休んでしまう。こうした律の移動は結果、部室から自宅の部屋へと閉じこもるかのように停止してしまう。しかしこの律のけいおん部との距離も、澪と同じくその回のうちに克服される。三話の場合はただけいおん部との距離だけではなく、自身のドラムという楽器からの距離が開くことが描かれている。この三話での移動する律は、昼休みの時間のシーンと、次々と楽器を変える(ということはつまり演奏する場所も変わる)一連のシーンのふたつのかたちで描かれるはずだ。



3-2 集団的移動



 ところで、個人の移動の主題のほかに、第二期では、梓以外の上級生四人が同時に移動する事態が発生する。それは第一期の、梓が入部した以降の回では見られなかったことだ。先ほど、部室との距離はけいおん部との距離だと先述したが、しかし、ここで注意すべきなのは、梓個人の場合はけいおん部との距離ではなく、上級生四人との距離なのだということだ。そして卒業が近くになるにつれて移動の運動を演じるのは梓だけではない。いやむしろ、部室との距離ができるのは、卒業する上級生である四人のほうなのだ。そのため、部室からの距離を埋めようとしない四人(とくに唯)の行動が描かれている。その描写は第二期二十六話と映画にある。第二期二十六話の最後、上級生の四人は、山中さわ子の自宅から学校に戻ってくる。すると部室からギターの音が聴こえ、唯は部室へと向かうが、しかし部室へ入ろうとするも、中から平沢憂と鈴木純の声が聴こえると扉を開けるのをやめてしまう。唯たちは梓が部室から出てくると走って逃げる。ここで逃げている途中で、唯が教室に視線を送るカットがあることも思い出そう。つまり部室だけ距離ができるのではなく、教室からも距離ができるのだ。そして校外へ出るところでこのシーンは終わる。つまり、部室、教室、そして学校から離れること、距離を開こうとすることという移動の主題がこの二十六話は見られるのだ。映画のほうでも、卒業式の当日、部室へと向かう唯は、扉を開けようとするも、後ろから律が屋上への扉が開いていたことを知らせ、扉の開閉の動作はここでも中断されてしまう。唯たち四人は屋上へ出て(部室から離れるかのように)まっすぐ走る。このようにして、今まで部室へ移動しようとしてきた彼女たちはその部室から離れようとするが、しかし彼女たちはいったいどこへ移動しようとするのか。それは言うまでもなく大学であろう。高校から大学へ移動しようとすること。それが二期以降の移動の主題なのである。

 しかし四人の移動の主題はそれだけではない。彼女たち四人には大学へ移動するまえに、いくつかの試練があったことを指摘しておきたい。第二期になると、移動の困難さが、修学旅行の回である四話と、マラソン大会の回である十五話の二話で描かれていたことを忘れてはならない。四話は、第一期四話と同じようにしっかりしようとする澪と、次々と意想外な行動を繰り返す唯、律、紬の対立関係という構図で成り立っているのだが、しかし唯一違うのは、彼女たち四人の道に迷う展開が描かれているところである。つまり澪だけでなく、そのほかの三人に、それも困難な移動をさせられる。十五話の場合もそうで、四人は一緒にマラソンをするが、しかし唯とはぐれたために三人はなかなか学校へたどり着くことができない。なぜ、第二期ではこのような移動の困難さは描かれるのか。それは先述したとおり、大学に行くまでの試練としてそういう展開が作品に導入されたのである。大学への距離を埋めるための試練。そうした試練はどのように克服されるか。まず四話では、しっかりしようとしすぎて、結果的にほかの三人とバラバラになってしまっているのが見て取れる。しっかりすることは澪のもうひとつの一面なのかもしれないが、しかしそれは自分を抑え込む感情でもあるだろう。そのため澪は自分らしさを失ってしまっている。それを如実に示すのは、道に迷ったときに、唯と紬は笑っていたがしっかりしようとしていた澪が笑わなかった、律の些細なギャグに反応して思わず笑ってしまった場面である。四人とともに楽しむこと、自分に正直でいること、そうした肯定の身振りがあって、困難に陥っていたその移動は無事旅館に停止することができたのである。また十五話では、唯以外の三人は離れてしまった唯を探すためにゴールすることができない。つまり、四人全員一緒でなければ円滑に移動ができないのである。ここにも肯定の身振りが認められるのだ。第二期のシリーズとは唯、澪、律、紬の四人の移動の物語といえるのだ。

 さらに言うと、映画が上映されてから様々な批評家が、作中にみられる「回転」のモチーフをさも映画で初めて登場したかのようにとりあげていたが、しかし、四話の旅館から出発し、戻ってくるという展開と、十五話の、四話と同じように、学校から出発してまた学校に戻ってくるというこうした往復は、立派に「回転」のモチーフであると指摘できる。すでにテレビアニメからこのモチーフは登場していたのである。テレビアニメでの「回転」は、停止するために、つまり日常を過ごすための試練としての移動の運動の象徴だった。ここにも、いま、ここの肯定感がにじみ出ているのであるが、しかし映画では、その「回転」から外れることがテーマとなっている。回転のモチーフが彼女たちにとって不幸でしかなかったのは、そうした高校生活の永遠なる日常に停止し続けようとしたからである(それは日本より時間が遅れているイギリスに旅行するということが、過去に戻ることの隠喩となっていることからも明らかである)。しかしそれはいままで過ごしてきた日常の否定を意味しない。この旅行が、梓に曲を贈るために、自分らしさを(テレビで何度も描かれてきたと同じように)結果的に取り戻すものであったことを考えるならば、むしろそうした日常で培ってきたその自分らしさの肯定を巡る旅行であると言えるのだ。

 彼女たちの移動は遅い。部室へ移動しようとしても、そこにはすでに誰かが居るし、移動がいつのまにか漂流になり、なかなか次の地点にたどり着けないことも起きる。また、その開始も遅い。ゆえに遅刻する。彼女たちはたえず遅れるのだ。なるほど第一期と第二期の一話の唯の移動(登校)が早かったときもあった。しかしそれは目覚まし時計の見間違えであり、遅れていると思い込んでしまっているためだ。遅れていると勘違いしたからこそ彼女は早く登校してしまったといえる。遅れることから彼女は逃れられないのだ。「けいおん!」の物語は遅れることが開始の契機となっている。遅れるということは彼女たちの未熟の現れかもしれない。しかし、彼女たちは遅れることを素直に受け止めているのだろうか。遅れることというのはいま、ここに間に合わないことを意味する。いま、ここに間に合うこと、(ややおおげさに言ってしまえば)生きることが彼女たちの抱えるテーマである。こうした、いま、ここの肯定を視界に収めなければ「けいおん!」を語ることはできない。「けいおん!」は決して否定的に語られるべき作品ではないのだ。

 足の演出について



 最後に足の演出についていくつか述べたい。山田尚子の演出には足のカットが頻繁に入る。これをアニメ評論家や、アニメ評論同人界隈では、感情表現や、また、性的な演出であると指摘する。しかし、果たして足のカットはそのふたつの意味しかないのだろうか。いやむしろ「けいおん!」にあってのふいに挿入される足のカットを、それらの効果として受け取っていいのだろうか。第一期一話の最後の、教室にいる唯と、部室にいる澪、律、紬の足のカットの対比、または第二期の六話と十話で描かれた、足だけをお湯で温め身体的疲労を癒す場面、そして、その足音によって澪だとわかった第一期十一話の律の場面を見れば、山田尚子の足の演出は、とても感情表現や性的な意味だけがあるとは思えない。

 忘れてはならないのが、「けいおん!」は停止と移動の主題によって織り成されたアニメであるということだ。停止と移動という運動によって足の演出の意味は先の指摘からは大きく変わる。足の演出と言っても、それはふたつの種類がある。それは立っている、または座っているという、つまり足の停止と、歩行や走行している足、つまり足の移動に分かれる。いわば足とは、その人物の停止ぶりと移動ぶりを表象させる表現である。またその一方で足のカットは見事な感情表現の演出でもあることは否定しない。感情という主語と、停止する、また移動するという動詞の融和が山田尚子の足の演出の本質なのであると言っていい。少なくとも「けいおん!」にはそれが認められる。

 例えば、第一期一話の最後の唯の足とほか三人の足の対比だが、まず見落としてはならないのは、彼女たちはどこの空間に居るかである。唯はけいおん部へ入部したことにより期待感に胸を膨らませ、教室の席に座ってる、つまり教室に停止している。一方、澪、律、紬は楽器を持ち部室で立っている、つまり部室に停止している。教室にいる唯と、部室にいる三人という対比は、まず停止の章で述べた、部室と教室の相性の悪さと、四人の距離感を浮かび上がらせる。実際、その後三話で、中間テストの補習のために部室へは行けず、おろかけいおん部まで廃部させられてしまうという危機に立たされるのだ。また、興味深いもうひとつの足の演出は、第二期六話と十話足をお湯につけ身体的疲労を癒す描写である。しかしこのふたつは相違がある。まず唯は自宅から学校へ移動するときの疲労であり、山中さわ子の場合は、学校に停止し続けることの疲労である。これは学生と大人ゆえの相違である。唯たち学生はまだ移動すべき空間があるが、大人であるさわ子は(さわ子の高校時代の教師がまだ在籍していることから)ある程度長くそこの学校へ停止しなければならないのだ。

 また十一話の、律が聴いただけで識別できてしまう澪の足音は、移動という主題から考えるべき演出である。このシーンで謎なのは、なぜ喧嘩したはずの人間を簡単に自室へ入れたのかということである。まず喧嘩の原因とは、澪が和のところへ停止することに対して律が怒ったからと見なすことができる。つまり律は澪の停止を肯定しないのだ。それを如実に示すのが、楽器店でのあるシーンだ。律はそこで、ギターやベースのレフティモデルをずっと眺めていた(停止していた)澪を無理やり連れだそうとしたのを思い出そう。律の、澪の他所で停止を許すことができないこうした否定的態度が、喧嘩という事態を招いたのである。そう考えると、澪が律の部屋に行くのは必然と言える。今まで他所に停止してきた澪が律と仲直りするためには、彼女のほうへ停止しなければならないのである。つまり、他所へではなく、律に停止すること。したがって澪の足音とはそうした肯定の響きであるのだ。律は、そうした肯定の響きである足音を聴いたからこそ澪を自室へ入れたのである。十一話のこの場面は、律と澪の互いを肯定しようとする意志が充溢している。ここにも「けいおん!」の肯定感がにじみ出ているのだ。

 そして、映画の最後、唯、澪、律、紬の足を延々と映す長回しは、単なる四人の感情表現として受け取ってはならない。その次のカットが空間と空間をつなぐ構築物である橋の上であったことを思い出すなら、間違いなくこの足のカットは、高校から大学への移動の表現なのである。



 終章



 「けいおん!」は停止と移動という二つの主題によって織り成されている。たしかに「けいおん!」は停止という主題が存在するかぎり、日常系に分類されるアニメだ。しかし、その停止のほかに移動という主題が導入された結果、そのほかの日常系作品には似ていないまったくの例外的作品になっているのだ。それゆえ「あずまんが大王」や「らき☆すた」などの作品と簡単に同一視することなどできない。しかし、東浩紀宇野常寛を代表するゼロ年代の批評家たちは、日常系アニメのブームについて様々な理由をつけて説明しようとし、その結果、「けいおん!」のこの逸脱ぶりをとらえることができなかった。結局、彼らに関心があるのは、作品単体(テクスト)ではなく、歴史的コンテクストにある。そういったコンテクストに作品を回収し、整合性を合わせる過程で作品にある様々な細部を殺す。さらにそのような連続的に見せかけた歴史的コンテクストから、オタクや社会までも論じてしまう。なるほど社会批評は今に始まったことではないし、一つの批評としてはそれなりに存在価値があるのかもしれない。しかし一方で、彼らの語るオタク論(男性視聴者しか念頭に入っていない)がオタクに対する差別を助長してしまった感は否めないし、また、作品を、例えば排除の論理のような言説から語ってしまった結果、作品が歪められてしまった。その代表的な作品が「けいおん!」なのである。

 例えば、男性キャラが排除されていると言われるが、では、彼女たちは一度でも、男性キャラを排除しようとしたのだろうかという疑問がまず浮かぶ。結局彼らは作品の外のオタクだけを見ており、作品の中のキャラクターの心理を見ていないのだ。また、物語が排除されているとも言っているが、そもそも物語という言葉自体が多義的だ。わざわざ述べるまでもなく、今まで数えきれないほどの物語論古今東西問わず出されてきた。そんな論者によって定義が異なる物語という言葉に依拠して、簡単に「けいおん!」には物語がないと断言してしまうのは、果たして批評家として正しい態度なのだろうか。しかし彼らの影響で、序章で紹介した、「けいおん!」を日常系アニメの代表的作品と誤認識した書籍「”日常系アニメ”ヒットの法則」では、「それに対して、日常系作品はというと、「大きな物語ではなく、短いエピソードの連続によって」描かれる構造は、たとえ1話くらい見逃しても大きな支障はないし、何なら、放送開始から数話を経てからの”途中参加”の敷居も低い」などとまた誤った指摘をしてしまっている。たしかに「けいおん!」は、基本的には一話完結式の構成になっている。しかし見逃してはいけないのは、そこには各回を貫く時間が無常に流れている点だ。途中参加の敷居が低いのだから、非連続的に、そして断片的に見てしまっても作品が楽しめると言うが、しかし、例えば第一期十一話のようなけいおん部が直面した困難な事件や、第一期第二期のシリーズのひとつのクライマックスを飾る学園祭ライブでの彼女たちの挑戦は、各回で描かれるキャラクターの交流やドラマの積み重ねがなければ感動の大きさは味わえないし、それゆえ面白さは変わるのだ。たしかに「けいおん!」には従来の音楽映画や音楽アニメのような特有のドラマが描かれていない。しかし、本当にそんなありきたりな物語を描いて面白いのだろうか。むしろ、そういう陳腐な物語に陥らなかった点を評価すべきではないのか。

 小津安二郎のように、日常系アニメも決して否定的な要素によって成り立っている作品ではないし、また何かを否定せよとも主張していない。そして、「けいおん!」は日常系アニメのなかでも例外的な作品なのだ。このように、ゼロ年代の批評家が誤って評価を下してしまった作品群を再評価することこそがゼロ年代から四年たった二〇一四年現在、為すべき仕事ではないだろうか。