ルル・ストリート

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蔡明亮の共存、孤独、そして不在

 蔡明亮(ツァイミンリャン)の映画の一つ一つのショットはまずフレームから見るべきである。蔡明亮にあっては空間と時間は二義的な意味でしかない。ではその画面の枠の限界性をもって蔡明亮は何を表現しているのか。それはその枠の中での登場人物たちの孤独ぶりと共存ぶりである。これはどの作品でも一貫しており、まぎれもなく蔡明亮の一つの主題と言っていい。そして共存することとは一つのコミュニケーションにほかならない。会話を交わすこともなく共にフレームに収まるだけで彼らは心を通わせあう。しかしあくまでもフレーム内に収まること、共存であり、同じ空間にいることや時間を共有することなのではない。彼の映画ではフレーム外にある世界や人物はほとんど排除されてると言ってよい。彼の映画は孤独から共存へ、もしくは共存から孤独へと向かうことを基礎に物語が動いている。
 彼の代表作である「河」では主人公の父ミャオ・ティエンがファストフード店のテーブルに腰掛けていると店の外から一人の青年がフェードインしティエンを見つめる。そしてそれに気づいたティエンは店の外に出て、彼とニアミスしながらたての構図の画面に収まるのだ。そして彼らはその後肉体関係を結ぶことになる。何故彼らが肉体関係を結ぶのかその心理的に説明した描写はない。たとえ二人の肉体関係がその後破綻しても、彼らが会話を一切せず、初対面なのにも関わらず、二人はフレーム内で共存しているということだけで肉体関係を結んでしまうという事態が生じてしまうのだ。また、彼の8作目の「黒い眼のオペラ」では、物語的に言えば、主人公のリー・カンションが共に眠る人物を探すということに要約されると思うが、同じフレーム内に共存する人物を探すという風にも見れる作品なのだ。さらに7作目の「西瓜」では、リー・カンションとチェン・シャンチーが登場する各ショットでは、片側が必ず空間の空きがある。これはいずれ会うことになるであろう二人がフレーム内に共存するために用意されていると見れるだろう。
 このようにほかの作品でもこの主題は貫かれている。彼にとってはまずフレームなのであり、同じ空間にいることや時間を共有することではないということを意識して彼の映画を見なければならない。しかし、空間や時間が二義的だとしてもそれらの表現を常に怠ってきたということではない。むしろ空間と時間はフレームを見栄えさせる装飾なのだと言える。映画批評家の荻野洋一がインスタレーションだと評したように彼の空間設計は芸術的と言ってもいいくらい凝っている。空間と時間のほとんど官能的と言ってもいいほどの交わり。その濃密な交わりは見ることを飽きさせることはないだろう。
 彼の映画はセリフが極端に少ないが、それは彼の映画が「聞くこと」よりも「見ること」を要請しているからだ。彼の映画の常連であるチェン・シャンチーによれば、この監督の現場では詳しいセリフが書かれた台本は存在しないという。だいたいの話の筋が書いてあるものを渡されるだけだと語っている。彼の映画ではセリフは重要ではないのだ。やはり重要なのは彼の映画の登場人物たちのフレーム内の孤独ぶりと共存ぶりなのだと言える。

 ところで、6日に公開された新作であり引退作でもある「ピクニック」はどうだったろうか。最後のショットまでは今までの蔡明亮の映画であった。孤独から共存へ、そして共存から孤独へという基本的な構造を有している。だが徐々にリー・カンションが家族の誰ともフレーム内で共存することはなくなり、最後、チェン・シャンチーとの共存も失敗に終わる。そして彼は孤独に陥るのだが、その後彼までもフレームアウトし画面からいなくなる。見えるものはただからっぽな画面である。そこには共存も孤独もなく、不在があるだけである。この不在ぶりをどう捉えるべきなのだろうか。この不在を蔡明亮なきピクニック以降の映画史と捉えればよいのだろうか。少なくとも、今の私には言葉にできない。  【追記】もしかしたら孤独、共存、不在ではなく、余白、密度、空白として蔡明亮の映画を捉えるべきなのかもしれない…。