ルル・ストリート

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溝口健二「山椒大夫」とフェデリコ・フェリーニ「道」の奇妙な共通点

 1954年、二つの映画が撮られる。溝口健二監督「山椒大夫」とフェデリコ・フェリーニ監督「道」である。この二つの映画は彼らの代表作であるのみならず、映画史に永遠に刻み込まれる傑作だ。そんな映画が同じ年に撮られたという事実だけでも映画史の事件なのだが、この二つの共通点はそれだけではない。まず共通するのはどれも女が虐げられる物語であるというところだろう。「山椒大夫」では田中絹代が、「道」ではジュリエッタ・マシーナがそれぞれ家父長的な男にたえず傷つけられる。また、絹代もジュリエッタも、歌によって自らの存在を世界に残し、そして男主人公(花柳喜章、アンソニー・クイン)を自分のところへ導くという点も共通し、さらに二つの映画は海のシーンで終わるのだ。そして最後に、何の因果か、どちらもヴェネツィア国際映画祭でコンペティション部門に出品され、グランプリを争ったのだ。こんなにも二作が共通した点が存在するというのはどういうことなのか。これは映画史の不思議としかいいようがない。

 これを指摘している人間が少なくとも私には見つけられなかった。20世紀を代表する映画監督である溝口とフェリーニは、作風的には似ているところは少ない。唯一似ているのは娼婦にまで堕ちる女を撮ったこと(溝口のほとんどの作品がそうだろう。フェリーニは「カリビアの夜」などがある)と女を主人公にして映画を撮り続けてきた点だろうか。しかしそれ以外のほとんどまったく似ている要素を見つけるのは困難だろう。フェリーニにはワンシーン・ワンショットのような撮影はほとんどないし、溝口にもフェリーニのようなイマジネーションあふれる映像は撮ったことがない。にもかかわらず、「山椒大夫」と「道」は共通点がありすぎている。往々にして映画史というのものは、製作された時代も、国も違うのに、結果的に似てしまった映画が数多くある。たとえば、小津安二郎の「東京の合唱」とキング・ヴィダー「群衆」であり(「群衆」は「東京の合唱」よりも早く製作された映画だが、しかし日本公開はされていなかった)、イングマール・ベルイマンの「不良少女モナコ」と高畑勲の「火垂るの墓」であり、清水宏の「小原庄助さん」と北野武の「アキレスと亀」などだろうか。映画史にはある細部の表象が似てしまう不思議さがある。どの時代もどの国も人間の想像力は変わらないということか。