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停止と移動ー山田尚子「けいおん!」ー 1/2

 

    停止と移動ー山田尚子けいおん!」ー

 序章



 社会論の相貌を持つ批評、または評論が多く書かれたゼロ年代。しかしそれは、作品を自身の単線的な歴史観に回収する作業でしかなく、連続的で整合性のとれた正しい歴史から見るそうした歴史的観点で、作品の価値を決定し論じるという、言わば自分語りでしかなくなってしまったといえる。そうした全体的な視点は、個々の作品の多元性や本来の豊かさを無視し、各作品の差異を気づかなくさせる。また、ジャンルにカテゴライズする作業に邁進するせいで、流行による価値の範例化から逸脱した作品を見ない。本稿では、批評家を具体的に名指しして批判するメタ批評のかたちをとらない。そうではなく、社会批評により作品の豊かさを見えなくさせられたアニメ「けいおん!」の救済のための作品論である。しかしそうした作品論という形式を維持しつつも、結果的には社会批評への批判と読める批評になるかもしれない。

 「思想地図Vol.4(2009)に掲載されている東浩紀宇野常寛黒瀬陽平氷川竜介山本寛の座談会では、まともに物語を語ることが不可能になってしまった現在の閉塞感を打ち破るためにアニメーションの未来を語るというテーマのもと、様々な議論を繰り広げている。そのなかで氷川は、「けいおん!」について言及し、
 「僕は、『けいおん!』を見て驚いたことが二点ありました。そのドラマにおけるコンフリクトの不在ですね。そしてもう一点が、女の子しか映っていないこと。あるとき「『けいおん!』の学校って女子高なんですか?」と聞かれてどきっとして」
 また、
 「好きな女の子だけあれば、もはや葛藤もいらない、特訓もいらない、努力もいらない。ものすごいアニメの構造だと思いました。ウケている理由は、たぶんその排除の仕方が究極的だからではないかと思います」
 と発言し、「けいおん!」という作品をあたかも排除の上で成り立っているアニメとして認識している。この氷川の発言を四人は特に否定せずに、むしろ共通の認識としている感がある。さらに東の

 「近景しかない、敵がいない、ドラマもないという『けいおん!』の徹底したミニマリズムこそが時代の最先端であると結論でしょうか」
 というこの結論も、また、否定されずにいる。こうした徹底された排除にしたがってけいおん!は作られたという認識は果たして正鵠を射ているのだろうか。また、この座談会で宇野は、大きな物語が機能不全に陥り、小さな物語(断片)を統一させずに混在させて成立しているアニメを新しい想像力を生み出す突破口とし、その意味で「らき☆すた」、「けいおん!」などの日常系アニメや「コードギアス」を肯定的に評価しているのだが、しかしこの是非はともかく、こうした「けいおん!」を「らき☆すた」と安易に同一化することも果たして正確に「けいおん!」という作品を捉えていることになるのだろうか。この議論がいささか歪なのは、排除の上に成り立っているからこそ、現代思想的に正しい作品だと評価されてしまっている点だ。「けいおん!」には物語は希薄で、男性キャラもほとんど登場していないし、またコンフリクトもほとんどないのは事実だろう。ただ、作中の登場人物の心理や、演出、そして毎話毎話繰り返し反復される主題などの重要な点を無視し、あくまでもそういった排除の論理に作品を還元し、それで「けいおん!」を語ってしまう気になってしまっているのこの現在の状況は、いささか違和感があるのも事実なのだ。また、この思想地図で行われた議論だけではなく、「”日常系アニメ”ヒットの法則」(2011)なる書籍でも「けいおん!」をほかの日常系アニメと同じように「排除の論理」の上で日常が描かれてあり、それゆえ日常系アニメの代表的作品であるかのような記述がなんのためらいもなくなされている。
 「物語の排除」、「コンフリクトの排除」、「男性キャラの排除」などのような、様々な要素の排除によって日常系アニメは成立しているといともたやすく断定され、そしてその一例として「けいおん!」という作品が議論の俎上に載せられる。問題なのは、先述したとおりどれもが、「けいおん!」で描かれる日常を、恋愛もしない対立もしない単なる記号と記号の戯れであり、そういう要素だけを見て、例えば「あずまんが大王」や「らき☆すた」に明確な違いなどないと認識しこれらの作品と同一視してしまうことである。しかしこの「排除の論理」の言説は、多くの人に支持されているのか、現在未だに影響力を保ち続けている。また「排除の論理」が、「けいおん!」の批判の根拠にもなってさえおり、例えば、オタクの欲望に忠実に沿った作品であると決めつけるだけでなく、そこから「けいおん!」のファン(実際は様々なメディアに紹介され、映画が十九億円ものヒットを飛ばし、ほとんど社会現象にもなっている作品であるため、「けいおん!」のファンだけが消費している作品ではないのは明らかなのだが)への差別的ともいえるような批判を助長させてしまっているともいえるのである。
 ここで思い出すのが、小津安二郎の存在である。小津は蓮實重彦が著書「監督 小津安二郎」で指摘したとおり、様々な否定的言辞による評価を受けてきた。「キャメラが動かない」、「キャメラの位置も変わらない」、「愛情の激しい葛藤が描かれない」、「物語の展開は起伏にとぼしい」、「舞台が一定の家庭に限定されたまま、社会的な拡がりを示さない」などの否定的言辞による評価は小津的な単調さという神話をかたちづくり、豊かな細部を排除しているとして蓮實は批判した。これらの否定的言辞はどこか「けいおん!」を覆う「排除の論理」の言説を想起させる。小津と「けいおん!」を安易に同一視するつもりはないが、作品を否定的に見てしまうこうした批評家の態度の不健康さはほとんど同じであると指摘できる。こうした言説が「けいおん!」を覆うだけならまだしも、そのまま重圧を加え続け、細部を、そして作品全体を圧殺してしまっている。しかし、「けいおん!」は小津と同じく決して排除などという否定的な要素で成立している作品なのではなく、むしろみずみずしい肯定感があふれるアニメなのだ。それは、様々な雑誌のインタビューで語っていた山田尚子の、私は世界を肯定したいんですという言葉に表れている。

 けいおん!」という作品は排除の上で成り立ってはいないし、また、この作品には、日常系アニメという枠組みに簡単にとらえきれないほどの逸脱が見られるのだ。今まで語られなかったこういったことを、本稿では詳細に論じてみたいと思う。

1 停止と移動

 

 山田尚子は女性監督らしく「けいおん!」に物質的とも言えるようなある生々しさを表象した。キャラクター造形や些細なしぐさなどに女子高生的なリアル感(むろんそれは錯覚でしかない)の意識、また光やほこりの表現、そしてカメラの揺動などに見られる実写感への追及はそれを実証づける。とくにカメラの揺動は手ブレのような揺れであり、映画のAパート冒頭でそうした撮影処理が多様されている。そうした女の子のリアルで実写的な日常性の描写はどの日常系アニメとも似ていない。しかし、「けいおん!」の突出性はそういう演出的なところだけではないのだ。

 「けいおん!」の始まりが、主人公である平沢唯が作品の主な舞台である桜が丘高校への入学と、けいおん部に入部するところからであるということを思い出そう。それ以降、第二期の最終話までずっとその内部空間に、唯含めけいおん部のメンバーは居続ける。彼女たちはふいにどこかへ転校することも、死んだりもしない。たえずその空間に居続ける。ところで、空間は重要なファクターである。実際に実在する学校をモデルにした高校と、その高校の音楽準備室という軽音楽部の部室という空間は、まるで一人の役者であるかのような存在感を放っている。一話一話かならず登場するその二つの空間がなければ「けいおん!」という作品は考えられないし、また作れない。そうした空間に彼女たちは居続ける。この居続けるという”運動”を停止ととらえよう。停止しなければ「けいおん!」の物語は始まらないのだ。そしてこの停止という運動は様々な表情を有し、ひとつの主題としてこの作品をかたちづくっている。

 しかし、なにもこの停止の主題によって作品を織り成すのは「けいおん!」だけではないことは注意しなければならない。停止はそのほかの日常系アニメにも通ずる主題なのである。その内部空間のほとんどが「けいおん!」と同じ学校であるのだが、しかしそれ以外にも特徴的な内部空間もあり、例えば「苺ましまろ」の伊藤千佳というキャラクターの自室、「ひだまりスケッチ」ならばそれは主要登場人物たちが暮すひだまり荘というアパートなどがある。これらの作品もそうした空間なしでは考えられないほどの存在感を放っており、そして作品の世界観の形成に大きく寄与してもいる。日常系アニメ的キャラクターは、そうした空間に停止し日常を謳歌する。いま、という青春期に、ここ、それぞれの作品の固有の内部空間に停止すること。そしてそれは一人ではない。ほかの仲間とともに停止する。そうした仲間を受け入れ、そして受け入れる自分を肯定することの身振りを演じ続けていることを無視し、日常系アニメを、何かの排除のうえで成り立っているという、そうした否定的な見方をして論じること、また、そうした排除の仕方を現代思想に絡めて論じ社会反映論に陥ることで、ますます作品から離れて行ってしまうことは避けねばならない。

 ところで、「けいおん!」には移動も主題として浮かび上がる。停止の言わば対義語である移動は停止するための”運動”である。停止するためには、停止するための内部空間の発見と、そこまでの距離を埋めなければならないのだ。山田尚子が優れているのは、この主題を導入したことだ。それにより「けいおん!」という日常系アニメは、そのほかの同ジャンルの作品にも似ていない極めて特殊なアニメになった。先述した「けいおん!」の一話の唯が、軽音楽部に入部するまえに、そして学校へ入学するまえに移動していたことを思い出そう。それくらいの運動ならばどの作品にもあると言うかもしれないが、もちろん移動の主題が表れているのはそれだけではない。だが、移動の主題の詳細はまず、停止の主題を論じてから述べることにする。

 「けいおん!」は停止と移動というふたつの主題が織り成す日常を描いた画期的なアニメである。この作品で表象される日常は、どんな日常系作品、例えば「あずまんが大王」や「らき☆すた」などで表象される日常とも似ていない。停止と移動というふたつの主題によって織り成される「けいおん!」という作品を、しばしば日常系アニメの代表作として取り上げ、ほかの日常系アニメといっしょくたにすることは誤った認識であると私は思う。



2 停止



 彼女たちは様々な空間に停止する。その空間とは部室であり、教室であり、自宅であり、講堂であるだろう。停止が主題のひとつとして物語が進行している以上、空間、場所が重要な意味を持つ。そのなかで彼女たちが日常的に停止するのは言うまでもなく部室であるのだが、この場合の停止とは居住の意味がある。なぜ居住の意味になるのかは、まず部室とはどのような空間であるのかを見ればわかるだろう。

 けいおん部の部室である音楽準備室は部の練習のためにある空間ではない。けいおん部は本来の部室の用途からかなりずれてその音楽準備室を使用している。そこは間違いなく彼女たちけいおん部の家に近いような場所になっており、部室という家で毎日(第二期一話で唯が言ったように)お茶ばかりをする。学校ではそういった私物は持ち込めないのが普通である。そうした学校の規則から逸脱した勝手なこの行為は、部室を完全に私物化する行為であり、その結果この学校のなかでかなり異質な空間になっている。

 この部室の私物化は、紬のティーセットの持ち込みから始まっているのだが、しかし、何故彼女はティーセットを持ち込むようになったのだろうか。考えてみれば、この作品の世界観を決定づける重要な行動であるはずなのに、また、その原因を直接的に描かれた描写はないという異質の事態なのにもかかわらず、この紬の謎のティーセットの持ち込みを論じられたことは今までなかった。こうしてみると、やはり「けいおん!」はいまだ知られていない作品であり、それゆえ語り終えてない現在進行形に生きている作品なのだ。彼女のこの行動の動機は原作の漫画でも明らかにされていない。こうした事態に人は今までなぜ驚かなかったのか。ここにも「けいおん!」の不幸が垣間見えてしまいいささか辟易してしまうが、しかしそれにしても、この彼女の唐突ともいえるティーセットという私物を持ち込む行為の解明のヒントはまったくないのだろうか。それはおそらく、その前ファーストフード店で部員集めの作戦会議をするシーンにあるだろうと私は推測するまだ唯が入部するまえ、澪、律、そして紬が部員を集めるために話し合うこのシーンでは、紬の今までファーストフード店に来たことがなかったほど家がお金持ちであるという人物設定が明らかになる。そうした人物のため、そこでの作戦会議を律と澪とは違ったかたちで受け止めているのは明らかだ。つまり彼女は楽しんでいるのである。そうした今まで来たことがなかったファーストフード店への来店とそこでのおしゃべりはまったく未体験な出来事として感じているはずだ。そうした経験が、この場面のような楽しいおしゃべりをどこかの場所でも求めたいという彼女の思いを抱かせたのだとしたらつじつまが合う。このファーストフード店での作戦会議の場が、いわば部室でするお茶の前身なのだ。ティーセットの持ち込みとは、紬のけいおん部のメンバーと楽しくおしゃべりしたいという願望の表れなのだ。またさらに、第一期四話の、普通にしたいという彼女のセリフを思い出すならば、彼女はお金持ちの家に生まれた令嬢としての自分の立場に不満を抱いていたことがわかる。部室とは自宅からの、今までの生活からの逃避場所であるという認識もまたつじつまが合うだろうと思うつまり、紬は裕福な家庭に生まれ、(言ってしまえば)庶民の生活にあこがれを抱いていた。そして、ファーストフード店でのシーンを契機に、そうした女子高生らしい(これもまた庶民的といえる)日常を求めたいがために、紬は部室を家からの逃避場所として設定し、ティーセットを持ち込んだのである。

 しかし、たとえ紬にとっての部室が、お金持ちの自宅からの逃避場所だとしても、けいおん部全体にとっては複数の人物たちによる共有される空間である。そういう空間にともに居ること、共存すること。そこには、互いを認め合い、肯定しようとする意志がある。この部室内での共存は重要で、言うまでもなく停止の主題なのだが、作中で何度も何度もほとんどのメンバーが停止することができない事態にも襲われるのだが、これは移動の章で語られることになるだろう。

 また、彼女たちはその相互主観的な空間にただ居るだけではない。彼女たちの停止は空間の創造行為をするようになる。それはティーセットだけではなくぬいぐるみなどの様々な私物を持ち込み、ホワイトボードに落書きをし、スッポンもどきという亀を飼う。創造された部室は間違いなく地理学者エドワード・レルフのいう実存空間にほかならない。「さらに、実存空間は単に体験されることを待っているような受動的な空間ではなく、人間活動によって常に創造され作りかえられている空間である」(エドワード・レルフ「場所の現象学)。しばしば、「けいおん!」には実存の問題を扱っていないという評価を見受けられる。先の思想地図での座談会でも、黒瀬は次のような発言をしている。

 「現在から振り返ってみても、九十五年からゼロ年代初頭くらいまではやはり「旧エヴァの影響を受けて、実存の問題をストレートに扱った作品が多くつくられ、様々な実験がなされ、そのなかから優れた作品が生まれていたということですね。それに比べれば、「らき☆すた」や「けいおん!」といった口コミ話題作は、たしかに、実存の問題を直接には扱っていない。むしろ、正面切って実存の問題を扱うことができない不能感というか、強烈な諦念を前提につくられているように見えます。」

 しかし、第一期の唯の、場所の発見という(つまり部室に停止することの)テーマは果たして実存的な問題と言えないのだろうか。自らの場所を発見することと、そしてかかわることは実存に深く関係しないとは到底言えないと私は思う。哲学者ハイデガーは、場所は、人間の実存における外部の絆と、人間の自由と実存の奥深さを解き明かすことによって、人間を位置付けると言った。都市も田舎も没場所的になりつつある現在において、生きられる空間などほとんどない。だがしかし、どんな無機質で、単なる幾何学的でしかない空間でさえ、そこで経験される様々な出来事を通してそれが思い出となり、いつしか自然とわれわれはそのような空間でもトポフィリアを抱くことがある。そうしたトポフィリアは自分の存在にとって大きな意味を持つ。自分が存在できる場所の発見は、自身の実存の問題といえるのである。事実、第一期の唯のテーマがそれではなかったか。最終話で講堂へ向かう唯のセリフを思い出そう。彼女は、今までとは違う自分になれる場所、存在できる場所を一話から探していたのである。また、第二期十六話の梓は自らのアイデンティティの危機に悩んではいなかったか。これらはすべて部室が関係している。部室がなければ、今の自分たちはいない。そして、そんな部室の役目に感謝するようにして二十三話で彼女たちは卒業前に掃除をしたのだ。たとえそこが三年しか居られず、そしてその後誰かが住まうことになるとしても、部室は彼女たちけいおん部にとっては重要な場所なのである。



2-1 様々な停止



 日常系アニメ、とくに「けいおん!」では、登場人物の場所とのかかわりによって日常が描かれる。そうした日常は登場人物たちのトポフィリアが土台となっているという指摘は可能だろうと思う。実際、部室が使えなくなることが描かれる第二期の十七話で、彼女たちは初めて部室へのトポフィリアに気づく。「大切なものを失って初めてそのありがたみがわかる。」という唯のセリフはそれを実証づけるだろう。「けいおん!」にあって部室に停止するということは、住むということ、つまり停止は居住という意味になっていると言える。部室とはけいおん部の家なのである。

 ところで、「けいおん!」にあっての停止という身振りを、机が象徴しているのは興味深い。彼女たちの停止は、内部にあって外部にないこのオブジェによっていくつかの表情を見せている。ここでは主に部室と教室という二つの空間の机の表情を論じたい。

 まず、部室に配置されている机は、戯れの場としての表情を持っていることが指摘できる。作品を見ていれば、彼女たちは机を合わせお茶を飲みながらお喋りする場面をすぐさま思い浮かべられる。しかしそうした机の使い方は本来の用途ではない。彼女たちは部室の私物化と一緒に、また机も私物化しているのだ。つまり部室内での机は、彼女たちの談笑のためのテーブルに逸脱しているといえる。では教室はどうだろう。教室での机は、第一期三話と第二期九話を見れば、本来の用途に沿って、ちゃんと勉強机として配置されているのがすぐさまわかるだろう。教室は部室と比べて公共性の強い空間なのだ。しかし、そんな教室に置かれている机も映画になるとかなり逸脱するようになる。ロンドン旅行が終わったあとで行われた教室でのライブシーンのときに、机が舞台の役割を負っているのである。

 以上で、机は三つの表情を持つのがわかる。戯れの場としてのテーブル、本来の用途に沿った勉強机、そしてライブの舞台。これらの表情は、「けいおん!」の停止の動作を簡潔に示している。そう見ると停止は単なる単調な動作ではないのは自明だ。彼女たちは練習せずに戯れたりはするが、先述した第一期三話と第二期九話、また、第一期六話、八話、十二話、第二期一話、七話、二十話を見るかぎり、勉強とライブ、つまり試練としての意味も含んでおり、彼女たちは戯れているばかりとは決して言えないのだ。



2-2 空間同士の衝突

 

 ところで、部室と教室は奇妙な関係を持っている。これまでなんの問題もなく続いていたその関係は、けいおん部のメンバーがそれぞれ同じ教室に所属していない場合、緊張状態に陥りやすくなる。それを表す話数を指摘すると、第一期六話と、第二期十八話、十九話である。この三つのエピソードで共通するのは学園祭の話であるということだ。学園祭はけいおん部のこれまでの集大成的イベントであると同時に、クラスの出し物のイベントでもある。ここで彼女たちの抱える二重性が前面化され、緊張状態に陥る。つまり、部室に停止する者だけではなく、教室にも停止する者でもあるために、部室と教室の二つの空間が対立するのだ。先にあげた三つのエピソードでは、けいおん部のメンバーがクラスの出し物のために部室へは行けなくなり、教室に拘束される。正確には、第一期六話は澪はライブの練習のために三人を訪れるのだが、唯、律、紬の三人が教室に拘束され、なかなか練習ができないのが描かれているし、また第二期の十八話と十九話では、今度は梓がライブの練習に専念したいと思っているのに、上級生の四人は、出し物の劇のために教室に拘束され、この二つの回でも、なかなか練習ができなくなっている。ここで、十八話の律と澪が部室から出るときに扉の開閉の動作を演じているカットがあるのだが、この動作は、移動の主題が色濃く出ており、これについては後で述べる。

 この部室と教室の対立、衝突により彼女たちは引き裂かれる。教室に拘束されていない者(澪、梓)はそこで悩みはするのだが、しかしメンバーとは対立しない。ここに肯定の身振りがある。空間的に衝突はしていても、彼女たちは衝突しようとはしないし、その素振りすらも見せない。そうした態度を、コンフリクトの排除であると表現せずに、彼女たちがかもし出す、けいおん部のみずみずしい肯定感とまず表現すべきである。先行する音楽映画や音楽アニメと比較して、バンドのメンバーと衝突するのが一般的な展開だという安易なレッテル張りは慎もう。むしろ、そういった通常の音楽ジャンルに当てはまらず逸脱する彼女たちの行動を、彼女たちと同じように肯定するべきだ。そういった、単線的な歴史に当てはもうとすることで、作品の評価を歪めてしまうことは断じて許されない。「けいおん!」という作品は音楽ジャンルから突出したアニメなのである。