ルル・ストリート

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愛を伝えるということと暴力を振るうということの身振り―重量をかけるということ―

honey and clover mayama & yamada romantic ...

 「ハチミツとクローバー」というアニメ/映画がある。これらの作品の中で、上のような、山田あゆみという人物が真山巧という人物に告白するシーンがあるのだが、これが極めて興味深いものとして私には映る。このシーンは、山田は、真山が自分ではなくほかの女性が好きだということがわかっており、絶対に叶わない恋だと知りながらも、彼への気持ちが抑えきれず、そうした複雑な思いに泣きながら自身の気持ちを伝えるということが描かれている。このシーンの秀逸なところは、そうした告白を山田が真山におんぶされる姿勢にさせたところなのだ。おんぶされるということは、自身の重量を相手にかけるということであり、そして相手はその重量を受け止めるということでもある。こうした重量をかける/重量を受け止めるというおんぶの姿勢は、そのまま、思いを伝える/受け止めるというそれぞれの心理の視覚化だと言えるのである。山田の好きという思いの重しを、真山はそれには応えられないけれども、うんと頷きながらその思いの重しを受け止めるのだ。

 こうした相手への愛を、重量をかけるという姿勢で演出されるのはなにもこの作品だけではないということは言うまでもない。そもそも、フィクションだけではなく、現実でも、相手への思いを重しとして重量をかける行為を誰しもがやるはずだ。キス、抱擁などがそれにあたるが、しかし一番視覚的にわかりやすく、且つその愛の強さを確認できるのは、それらを複合させた行為であるセックスであるのは言うまでもない。また、もしくはセックスは一方向的にではなく、互いに重量をかけ合う行為であるともいえると思う。

 重量をかけるということ。そうした行為は相手への愛を伝えるもっとも簡単な表現である。しかし、重量をかけるということはなにも愛という意味だけにはならないだろう。それは暴力という意味にもなりうるのだ。殴る、蹴る、投げ飛ばす、絞めるなどの暴力を体重をかけなければ成立しないのは自明だ。言わば、相手に自身の重量を勢いとともに押し付ける行為でも言えるのだ。

 例えば伝説的なカルト映画である「ありふれた事件」の、これもまた極めて秀逸なふたつのシーンを見れば、暴力が必然的に重量をかける行為であるということがわかるだろう。


Man Bites Dog Opening Scene Açılış Sahnesi - YouTube


Man bites dog "Family-Killer" (Mann beisst Hund ...

 また、これらのシーンには重量をかけるさいの勢いがあるが、しかし映画にはその勢いなどなくとも、それもほんの少しの重量さえかければそのまま暴力になりうるということを示す映画がある。ジャン・リュック・ゴダールの「気狂いピエロ」である。この傑作の映画では、アンナ・カリーナがガソリンスタンドの店員らを殺害するシーンがあるのだが、車のボンネットをはさむだけと、殴ると形容していいのか困ってしまうほど勢いが全くなく、ただ拳を胸に押し付けるだけという身振りで人を殺すという奇妙な描写がある。

Pierrot le fou Peugeot 404 Belmondo - YouTube

本来の映画ならば人を殺すという運動は活劇性が内在するものだが、このシーンにはそれがまったくない。非活劇的な人殺しという大変面白いシーンになっている。

 抱える感情が真逆でも、自分の重量を相手にかけるという点では変わらない。愛するという行為と暴力は紙一重なのである。今までは愛する行為と暴力をそれぞれ語っていたが、しかし、その愛と暴力というそうした矛盾を内包させた身振りを映画は描いてもいるのである。相手への愛が結果的に暴力になってしまうという倒錯した身振りを描いた映画と言えば、レオス・カラックスの「ボーイ・ミーツ・ガール」とセルジオ・レオーネの「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」が代表的だろう。残念ながら動画がなかったのでここに載せられないのだが、前者では恋する女性を抱きしめようとし、後者でも恋する女性にセックスをせまろうとするのだが、結果的にそれらの行為が暴力になってしまうのが描かれている。

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 カラックスの代表作であり、この一作で彼をゴダールの再来と言わしめた傑作「ボーイ・ミーツ・ガール」は、それぞれ失恋したアレックス(ドゥニ・ラヴァン)とミレーユ(ミレーユ・ペリエ)の出会いとその後の二人の関係模様が描かれる映画である。映画のラスト、失恋したミレーユ演じるミレーユ・ペリエは自室でその悲しみからはさみで手首を切るマネをする。そのとき背後からドゥニ・ラヴァン演じるアレックスが訪問してくるもののそれにミレーユは気が付かないでいる。またアレックスもミレーユが手首にはさみをあてていることを知らずにそのまま彼女を抱きしめる(つまり重量をかける)のだが、そのときの衝撃ではさみは彼女のわきばらを刺してしまう。助けてとつぶやくもミレーユは息絶え、アレックスは彼女を死なせてしまったことにただ悲しみに暮れるしかない、というところで映画は結末を迎える。このバッドエンド的展開は愛と暴力の混濁だと指摘することができると思う。つまり、アレックスの愛がミレーユを殺めてしまう暴力になってしまうのだ。

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 また一方レオーネの遺作であるギャング映画ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」では、主人公のヌードルス(ロバート・デ・ニーロ)が長年恋をしていたデボラ(エリザベス・マクガヴァン)を襲うシーンがあるのだが、このシーンもヌードルスのデボラへの愛がレイプという歪な暴力に結果的になってしまうのだ。

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 重量をかけるという身振りに注目することは愛と暴力に注目することだ。そしてその相反する感情が実は身振りから見れば極めて似ていることがわかる。これはとても面白いことだと思う。