ルル・ストリート

いろんなことを書いていきたいです。

増加―クリストファー・ノーラン「インターステラー」―

 先日豊島園のIMAXシアターで「インターステラー」を見てきた。そのさいある気になった点がありそれがうまく言葉に出来なかったので昨日立川にある普通のシネコンに行きもう一度見てきた。理系でもないしSF小説も読まない人間なので、物理学や量子論の専門用語は理解するのが難しく科学的な整合性を検証するのも無理だし、またSF的なガジェットの評価も私には荷が重すぎる。さらに上映時間が3時間近いので実際二度見ても映画をすべて理解するのはとても出来なかったのだが、しかし映画のある構造というかパターンみたいなものを認められたのでそれを今から書いていこうと思う。

 まず、主人公であるクーパーの義父の「産めよ増やせよ」のセリフを思い出してほしい。このセリフは砂嵐によって食糧難と環境破壊が起こり、その影響で人類やその他植物などの生物が衰え弱っていくのをどうにかしなければならないという状況で、人類が存続するためには子孫の繁栄と食料の確保であることを意味している。人口の減少と畑の数の減少から抗うために人口と畑を増加しなければならないのだ。クーパーの宇宙の旅の目的は人口や畑が減少し続け最終的に人類が滅亡するというシナリオを変えるために新たに居住が可能な星を探すことだ。減少から増加へ。それがこの映画の主題と言っていいかもしれない。このパターンは物語のレベルでも、映像のレベルでも、意味のレベルでも認められる。

 人類が存続するためには人口と畑を増加しなければならないと言った。だが増加しなければならないのはそれだけではなく、次元数も増加しなければならない。次元の数の増加が人類を救う道なのだ。それはダークホール特異点に向かい未来の人類が創造した五次元世界に到達したクーパーが、娘のマーフィーに量子データの情報を伝達し、スペースコロニーを建設させ、地球の人々が救われることからもわかる。人類はいずれ五次元世界を創造しなければならないのだ。しかし、増加することはなにも人類に幸福をもたらすだけではないことは映画を見ればわかる。作中で増加するのは次元だけではない。重力の重さも増加する。ミラー博士が滞在している水の惑星の重力は地球の重力よりも重く、そのため時間の進みが遅い。クーパーたちはその星で津波に襲われ隊員一名を失い、さらにミラー博士は死んでいることがわかり、またとても人類が住めるような場所ではないことがわかるが、しかしエンジン回復のために約45分滞在しなければならなくなる。その星での一時間は地球時間の何年分であり、結果的に時間を無駄に浪費してしまうことになってしまう。いつ人類が滅亡するかわからない中で、一刻も早くミッションをクリアしなければならないが、重力の重さのせいで時間を大幅にロスしてしまうのだ。マーフィーが体験したポルターガイスト現象にも増加のパターンが認められる。マーフィーは本が本棚から落ちるのを幽霊の仕業だと思い込んでいたが、物語が終盤に差し掛かるとそれは幽霊ではなく父クーパーであることを知る。幽霊という虚体から父親という実体へと、存在者の質量が増加するのだ。

 このように物語のレベルでの増加のパターンを見てきたが、次は映像と意味のレベルの増加のパターンを記述したい。公開後よく比較されるキューブリックの「2001年宇宙の旅」。それは様々な点でこの映画を思い出さずにはいられないからだろう。実際ノーラン本人も「2001年宇宙の旅」から影響を受けていると公言している。私は「インターステラー」で描かれる時空横断は「2001年宇宙の旅」のスターゲイトを思い出さずにいられなかった。この映画で主人公はスターゲイトを通じて時空を横断するが、その映像は抽象的と言うか観念的なものに仕上がっている。対して「インターステラー」はアインシュタイン一般相対性理論に基づいてワームホールブラックホールをほとんど正確に映像化していると、製作総指揮を務めた物理学者キップ・ソーンが特典映像で語っている。つまり観念的な映像から、科学的整合性のもとにより具体化された映像へとその映像の具体度の増加が認められるのである。また意味のレベルでは、映画の序盤、クーパーと娘のマーフィーと息子のトムを乗せた車が走っていると突然上空からインド空軍のドローンが飛んでくるというシーンは、私はヒッチコックの「北北西に進路を取れ」のケーリー・グラントが畑の上で軽飛行機に追いかけられるシーンを想起させた。「北北西に進路を取れ」のほうは軽飛行機という乗り物の物語的意味はまったくない。ただ映画を盛り上げるためのマクガフィンである。しかし「インターステラー」のほうには意味がある。つまり、上空を飛ぶドローンを地上に降ろし、解体し部品を農業機械のために使おうとするのだが、この行動はクーパーの関心が空から地上へと移っているという心境を観客に伝えている。さらに、何年も上空を飛んでいたというこのドローンはそのままクーパーのその後に待ち構える運命の隠喩と言えないだろうか。つまり、宇宙(空)へと旅立ち地上(と言ってもスペースコロニーになるわけだが)へ戻ってくる途方もない時間の長さがそのままドローンの飛行時間の長さによって喩えられているのだ。このように畑の上を飛ぶドローンという飛行機は「北北西に進路を取れ」の軽飛行機とは違い意味がある。つまり軽飛行機からドローンへと意味の量が増加し、物語的無意味さは有意味になるのだ。しかし「北北西に進路を取れ」との関連は私の単なる邪推にすぎないことは言わなければならないだろう。

 このように「インターステラー」には増加のパターンが認められる。「インターステラー」とは増加することによって織り成される映画テクストであると指摘できる。これは結局のところ私の思い込みにすぎないかもしれないが、しかし指摘しておく必要はあるだろうと思う。

 

 

停止と移動ー山田尚子「けいおん!」ー 2/2

 3 移動

 

 「けいおん!」には停止というせわしない動作を登場人物が演じるのはすでに指摘した。そうした停止はなにも「けいおん!」を特色づける主題ではないのも先述したとおりである。むしろ停止はどの日常系アニメにも見られる主題なのである。しかしそれにしても、停止が一つの主題となっているのにもかかわらず、彼女たちの歩行ぶりと走行ぶりはなんだろうか。右から左へ、左から右へ、るいは後方から前方へ。前方から後方へと画面を縦横無尽に駆け巡る。そのような運動が第一期、第二期、そして映画に繰り返し反復される。何度も描かれるけいおん部のメンバーの登校や帰宅の場面。第二期の四話や十五話。映画のロンドンへの旅行など。これら数限りない運動を考えれば、「けいおん!」という作品が、退屈した日常描写が描かれたアニメであるとは到底思えない。そこには間違いなく活劇性があるのだ。歩き、走り、そしてときには転んだりする。

 ところで、移動するのはなにもキャラクターだけではない。ライブのために講堂に機材を持ち運ぶ唯や紬の移動を描いた第一期の六話や、部室を掃除することになり、その部室にあった私物や古いギターなどが、彼女たちの家や楽器店に移動している第二期の二話、そして、卒業前なのにもかかわらず、まだ持って帰っていなかった教科書や、律が授業中唯に書いた手紙などが、それぞれのメンバーの自宅へ移動する二十三話などがそれを立証づける。

 このように、個人の移動。けいおん部数人の移動。またはけいおん部全員の移動。物の移動など、様々な相貌を見せる移動だが、そこから、学校への移動。部室への移動。講堂への移動。自宅への移動。楽器店への移動など、そこからさらに分化される。

 言うまでもなく、「けいおん!」という作品は、学校、部室、教室、講堂、唯の自宅など、様々な空間によって世界が秩序付けられている。それゆえその空間に停止するためにはその空間へ向かわなければならない。彼女たちの移動とは、空間と空間をまたぐ移動、つまり空間移動のことだといえる。

 移動は、例えば第一期一話とそれを反復した最終話の唯の自宅から学校へという象徴的な場面を見れば、主題化されているのがわかるだろう。一話は、なにかに気を取られてなかなか登校できない、つまり円滑な移動ができなかったが、最終話での唯は成長し、まっすぐ講堂へと移動することができるようになったという一連のシーンの描写。また、二話の楽器を買うくだりでは、メンバーが待っている場所からはあと数メートルなのに、犬にかまってなかなかそこへたどり着けない。しかし唯の移動はそれだけではないどころか、唯以外の澪、律、紬、梓にも何度も移動するのが画面に示される。

 そのような移動の主題が導入された結果、「けいおん!」は日常系アニメというジャンルから逸脱するようになる。そのほかの日常系アニメにこの主題が導入されているようには見えない。「けいおん!」を簡単に日常系というジャンルにまとめることができないのにはそのためである。さも日常系アニメの代表的な作品であると語られがちだが、しかし「けいおん!」は明らかにほかの日常系作品よりも似ていなく、むしろ例外的な作品であるともいえるのだ。

 しかしだからといって、停止の対義語である移動はその停止の否定を意味しない。移動は停止へ向かうための運動なのだ。また、停止とは「いま、ここ」にいる自分、仲間の肯定の身振りであるということは先述した。つまり、移動とはそうした肯定をするための運動なのだ。彼女たちは肯定するために移動するのである。第一期一話と最終話の唯の、ライブへ向かう移動を見ればそれはうなづけるだろうし、また、物の場合も、古いギターを楽器店へ売りに行くというその移動が、万年、つまり「いま、ここ」の永続性という象徴である亀を部室に停止させる契機となることからもわかるだろう。

3-1 個人的移動



 作品を毎話毎話注意深く見なくとも、各登場人物がせわしなく移動する身振りを演じていることに気付くはずだ。一番興味深い移動は、おそらく部室へ向かう移動であるだろう。ことあるごとに各回それぞれで、けいおん部のメンバーの誰かが、部室へ移動する身振りが画面に示されている。このようなカットは、その人物の部室のなかの不在を明らかにさせる。それにすでに誰かが部室に居るという場合が多いためにその不在ぶりが一層際立つ。先述したとおり、けいおん部にとって家のような空間である部室に居ないということ。そのような異例の事態が「けいおん!」には頻繁に起きる。なぜその人物は部室に居ないのだろうか。その人物が巻き起こすドラマを追い続ければ、その人物はけいおん部というグループから離反してしまっていることがわかるだろう。つまり、けいおん部から離反しているこの心理的距離を、部室との距離という物理的距離に置き換えられているといえる。その人物が不在だったのは、部室とのあいだに距離ができてしまったためである。それゆえに彼女たちは遅れる。わざわざ部室までの距離を移動しなければならないがゆえに彼女たちはほかのメンバーより部室へ入るのが遅れるのだ。

 距離ができるのは、一人だけではない。たとえば、第二期の十七話のように部室が使えなくなり、様々な場所に移動しながらも、練習しようとする回は、けいおん部全員が部室との距離が開く。だがこれは珍しい事態なのだということが作品をよく見ていればわかるだろう。むしろ、全員ではなく、メンバーの数人、または誰かひとりだけが部室との距離が開く事態に見舞われるのが普通なのである。

 もうひとつ指摘しておかなければならないのは、部室との距離ができる者は必ず扉の開閉の動作を演じるということだ。先述した第一期一話と最終話の唯もそうで、ギターを家から持っていくために部室の扉の開閉のカットがあったはずだ。しかし、その後彼女は部室には戻っていない。向かうのは講堂である。では彼女はけいおん部との距離は埋められなかったのだろうか。しかし、講堂の扉の開閉のカットを見ればそれは違うと言えるだろう。このカットは部室からでる唯の扉を開けるカットと対応している。つまり、扉が部室と講堂という空間の同一化の契機として演じているのだ。彼女たちは部室と距離が開くと、必ず扉の開閉の動作を演じる。しかし、唯一の例外が、である。たしかに彼女の扉の開閉の動作はなくはないただ紬はその名前のとおり、メンバーをつなぎ合わせるという、つまり調和役としてのキャラクターとして機能しているため、あまり意味をなさない。それはお茶を注ぐ役を一貫して続けていることからもわかる。そういう役として存在する紬というキャラクターはけいおん部と距離ができないのは当たり前だ。彼女はけいおん部のなかではとても異質な存在なのであるそれに比べて唯、澪、律、梓はとても不安定な存在だといえる。

 まず、この四人の、それぞれ単体での扉を開閉する動作の回数を数えよう。唯の場合、一期が(一話の律に連れられ入ってくる扉の開閉の動作を抜いても)六回であり、ほかのメンバーよりも多い。しかし二期では二十三話だけとたった一回である。映画は一回である。澪の場合は一期は二回、二期は0回。律の場合は一期は一回(ただし、「けいおん!」にあっての扉が、先述した一期一話と最終話での扉と同じように、どの空間にも主題を通底させる機能を有するのであれば、三話での唯の部屋の扉を何度も開閉する動作、そして結局その空間には居続けることがなかった一連の場面での律は、立派にけいおん部との距離ができていることがいえる)、二期は三話だけの一回。そして梓の場合であるが、一期は二回、二期は十一回であり、とくに十六話は四回も扉を開閉する。映画では三回である。

 こうやって見ても、唯が合計八回、澪は合計二回、律も合計二回、梓は合計十六回と、梓の回数がほか三人と比べて突出していることがわかる。とくに二期後半になると、格段に多くなる。それはいったい何故か。第二期は上級生の三年生への進級から卒業までを描いたシリーズである。つまり後半になるつれて上級生の卒業が近くなるということだ。言うまでもなく、梓はひとつ下の下級生であるから、必然的に四人とは別れなければならない。つまり、そこにはどうやっても埋められない距離ができてしまう。おそらく扉の開閉の動作がけいおん部のなかで一番多いのはそのためだ。学年が違うということによって梓は上級生四人とのあいだの距離が必然的にできてしまう。ゆえに彼女は遅れる存在としての意味が強いのである。

 澪と律の移動についてもいくつか述べたい。第一期の四話と六話の部室の扉の開閉の動作を演じている澪を見れば、彼女と部室には距離が開いていることが理解できる。扉を開けて部室に入ってきて、唐突に演奏の特訓のために合宿をすると宣言をする四話での澪はその後、唯、律、そしてそのふたりについていく紬によってなかなか練習ができず悩む。そこには間違いなく三人との距離がある。しかしその回での澪の移動の主題は、最終的にBパートの最後にメンバーとともに入ることになる露天風呂に停止することになりここで克服される。今まで練習を嫌がった唯の、合宿してよかったというセリフによる承認(肯定)により澪の移動の物語は終わりを迎えるのである。そして六話は四話よりも複雑である。まず、停止の章で述べたとおり、学園祭は部室と教室という二つの空間の対立に陥るイベントであるため、学園祭のために練習したい澪はここでは、部室に停止し、一方クラスの出し物のために唯律紬は教室に停止している。であるから部室から距離ができているのはむしろ澪以外の三人のほうだ。しかし、その後三人が部室に戻ってきて練習が再開されたのにもかかわらず、ライブへの不安から今度は澪のほうも部室との距離が開いてしまう。しかし最後は講堂に停止しここでの移動の物語は終わりを迎えるだろう。

 律の場合、第一期十一話、第二期三話で移動する。いささかシリアスに描かれた十一話での律と澪の喧嘩の顛末を思い出そう。練習を中断し部室から出ていった律は、そのまま部室に戻らないどころか、風邪をひいて学校まで休んでしまう。こうした律の移動は結果、部室から自宅の部屋へと閉じこもるかのように停止してしまう。しかしこの律のけいおん部との距離も、澪と同じくその回のうちに克服される。三話の場合はただけいおん部との距離だけではなく、自身のドラムという楽器からの距離が開くことが描かれている。この三話での移動する律は、昼休みの時間のシーンと、次々と楽器を変える(ということはつまり演奏する場所も変わる)一連のシーンのふたつのかたちで描かれるはずだ。



3-2 集団的移動



 ところで、個人の移動の主題のほかに、第二期では、梓以外の上級生四人が同時に移動する事態が発生する。それは第一期の、梓が入部した以降の回では見られなかったことだ。先ほど、部室との距離はけいおん部との距離だと先述したが、しかし、ここで注意すべきなのは、梓個人の場合はけいおん部との距離ではなく、上級生四人との距離なのだということだ。そして卒業が近くになるにつれて移動の運動を演じるのは梓だけではない。いやむしろ、部室との距離ができるのは、卒業する上級生である四人のほうなのだ。そのため、部室からの距離を埋めようとしない四人(とくに唯)の行動が描かれている。その描写は第二期二十六話と映画にある。第二期二十六話の最後、上級生の四人は、山中さわ子の自宅から学校に戻ってくる。すると部室からギターの音が聴こえ、唯は部室へと向かうが、しかし部室へ入ろうとするも、中から平沢憂と鈴木純の声が聴こえると扉を開けるのをやめてしまう。唯たちは梓が部室から出てくると走って逃げる。ここで逃げている途中で、唯が教室に視線を送るカットがあることも思い出そう。つまり部室だけ距離ができるのではなく、教室からも距離ができるのだ。そして校外へ出るところでこのシーンは終わる。つまり、部室、教室、そして学校から離れること、距離を開こうとすることという移動の主題がこの二十六話は見られるのだ。映画のほうでも、卒業式の当日、部室へと向かう唯は、扉を開けようとするも、後ろから律が屋上への扉が開いていたことを知らせ、扉の開閉の動作はここでも中断されてしまう。唯たち四人は屋上へ出て(部室から離れるかのように)まっすぐ走る。このようにして、今まで部室へ移動しようとしてきた彼女たちはその部室から離れようとするが、しかし彼女たちはいったいどこへ移動しようとするのか。それは言うまでもなく大学であろう。高校から大学へ移動しようとすること。それが二期以降の移動の主題なのである。

 しかし四人の移動の主題はそれだけではない。彼女たち四人には大学へ移動するまえに、いくつかの試練があったことを指摘しておきたい。第二期になると、移動の困難さが、修学旅行の回である四話と、マラソン大会の回である十五話の二話で描かれていたことを忘れてはならない。四話は、第一期四話と同じようにしっかりしようとする澪と、次々と意想外な行動を繰り返す唯、律、紬の対立関係という構図で成り立っているのだが、しかし唯一違うのは、彼女たち四人の道に迷う展開が描かれているところである。つまり澪だけでなく、そのほかの三人に、それも困難な移動をさせられる。十五話の場合もそうで、四人は一緒にマラソンをするが、しかし唯とはぐれたために三人はなかなか学校へたどり着くことができない。なぜ、第二期ではこのような移動の困難さは描かれるのか。それは先述したとおり、大学に行くまでの試練としてそういう展開が作品に導入されたのである。大学への距離を埋めるための試練。そうした試練はどのように克服されるか。まず四話では、しっかりしようとしすぎて、結果的にほかの三人とバラバラになってしまっているのが見て取れる。しっかりすることは澪のもうひとつの一面なのかもしれないが、しかしそれは自分を抑え込む感情でもあるだろう。そのため澪は自分らしさを失ってしまっている。それを如実に示すのは、道に迷ったときに、唯と紬は笑っていたがしっかりしようとしていた澪が笑わなかった、律の些細なギャグに反応して思わず笑ってしまった場面である。四人とともに楽しむこと、自分に正直でいること、そうした肯定の身振りがあって、困難に陥っていたその移動は無事旅館に停止することができたのである。また十五話では、唯以外の三人は離れてしまった唯を探すためにゴールすることができない。つまり、四人全員一緒でなければ円滑に移動ができないのである。ここにも肯定の身振りが認められるのだ。第二期のシリーズとは唯、澪、律、紬の四人の移動の物語といえるのだ。

 さらに言うと、映画が上映されてから様々な批評家が、作中にみられる「回転」のモチーフをさも映画で初めて登場したかのようにとりあげていたが、しかし、四話の旅館から出発し、戻ってくるという展開と、十五話の、四話と同じように、学校から出発してまた学校に戻ってくるというこうした往復は、立派に「回転」のモチーフであると指摘できる。すでにテレビアニメからこのモチーフは登場していたのである。テレビアニメでの「回転」は、停止するために、つまり日常を過ごすための試練としての移動の運動の象徴だった。ここにも、いま、ここの肯定感がにじみ出ているのであるが、しかし映画では、その「回転」から外れることがテーマとなっている。回転のモチーフが彼女たちにとって不幸でしかなかったのは、そうした高校生活の永遠なる日常に停止し続けようとしたからである(それは日本より時間が遅れているイギリスに旅行するということが、過去に戻ることの隠喩となっていることからも明らかである)。しかしそれはいままで過ごしてきた日常の否定を意味しない。この旅行が、梓に曲を贈るために、自分らしさを(テレビで何度も描かれてきたと同じように)結果的に取り戻すものであったことを考えるならば、むしろそうした日常で培ってきたその自分らしさの肯定を巡る旅行であると言えるのだ。

 彼女たちの移動は遅い。部室へ移動しようとしても、そこにはすでに誰かが居るし、移動がいつのまにか漂流になり、なかなか次の地点にたどり着けないことも起きる。また、その開始も遅い。ゆえに遅刻する。彼女たちはたえず遅れるのだ。なるほど第一期と第二期の一話の唯の移動(登校)が早かったときもあった。しかしそれは目覚まし時計の見間違えであり、遅れていると思い込んでしまっているためだ。遅れていると勘違いしたからこそ彼女は早く登校してしまったといえる。遅れることから彼女は逃れられないのだ。「けいおん!」の物語は遅れることが開始の契機となっている。遅れるということは彼女たちの未熟の現れかもしれない。しかし、彼女たちは遅れることを素直に受け止めているのだろうか。遅れることというのはいま、ここに間に合わないことを意味する。いま、ここに間に合うこと、(ややおおげさに言ってしまえば)生きることが彼女たちの抱えるテーマである。こうした、いま、ここの肯定を視界に収めなければ「けいおん!」を語ることはできない。「けいおん!」は決して否定的に語られるべき作品ではないのだ。

 足の演出について



 最後に足の演出についていくつか述べたい。山田尚子の演出には足のカットが頻繁に入る。これをアニメ評論家や、アニメ評論同人界隈では、感情表現や、また、性的な演出であると指摘する。しかし、果たして足のカットはそのふたつの意味しかないのだろうか。いやむしろ「けいおん!」にあってのふいに挿入される足のカットを、それらの効果として受け取っていいのだろうか。第一期一話の最後の、教室にいる唯と、部室にいる澪、律、紬の足のカットの対比、または第二期の六話と十話で描かれた、足だけをお湯で温め身体的疲労を癒す場面、そして、その足音によって澪だとわかった第一期十一話の律の場面を見れば、山田尚子の足の演出は、とても感情表現や性的な意味だけがあるとは思えない。

 忘れてはならないのが、「けいおん!」は停止と移動の主題によって織り成されたアニメであるということだ。停止と移動という運動によって足の演出の意味は先の指摘からは大きく変わる。足の演出と言っても、それはふたつの種類がある。それは立っている、または座っているという、つまり足の停止と、歩行や走行している足、つまり足の移動に分かれる。いわば足とは、その人物の停止ぶりと移動ぶりを表象させる表現である。またその一方で足のカットは見事な感情表現の演出でもあることは否定しない。感情という主語と、停止する、また移動するという動詞の融和が山田尚子の足の演出の本質なのであると言っていい。少なくとも「けいおん!」にはそれが認められる。

 例えば、第一期一話の最後の唯の足とほか三人の足の対比だが、まず見落としてはならないのは、彼女たちはどこの空間に居るかである。唯はけいおん部へ入部したことにより期待感に胸を膨らませ、教室の席に座ってる、つまり教室に停止している。一方、澪、律、紬は楽器を持ち部室で立っている、つまり部室に停止している。教室にいる唯と、部室にいる三人という対比は、まず停止の章で述べた、部室と教室の相性の悪さと、四人の距離感を浮かび上がらせる。実際、その後三話で、中間テストの補習のために部室へは行けず、おろかけいおん部まで廃部させられてしまうという危機に立たされるのだ。また、興味深いもうひとつの足の演出は、第二期六話と十話足をお湯につけ身体的疲労を癒す描写である。しかしこのふたつは相違がある。まず唯は自宅から学校へ移動するときの疲労であり、山中さわ子の場合は、学校に停止し続けることの疲労である。これは学生と大人ゆえの相違である。唯たち学生はまだ移動すべき空間があるが、大人であるさわ子は(さわ子の高校時代の教師がまだ在籍していることから)ある程度長くそこの学校へ停止しなければならないのだ。

 また十一話の、律が聴いただけで識別できてしまう澪の足音は、移動という主題から考えるべき演出である。このシーンで謎なのは、なぜ喧嘩したはずの人間を簡単に自室へ入れたのかということである。まず喧嘩の原因とは、澪が和のところへ停止することに対して律が怒ったからと見なすことができる。つまり律は澪の停止を肯定しないのだ。それを如実に示すのが、楽器店でのあるシーンだ。律はそこで、ギターやベースのレフティモデルをずっと眺めていた(停止していた)澪を無理やり連れだそうとしたのを思い出そう。律の、澪の他所で停止を許すことができないこうした否定的態度が、喧嘩という事態を招いたのである。そう考えると、澪が律の部屋に行くのは必然と言える。今まで他所に停止してきた澪が律と仲直りするためには、彼女のほうへ停止しなければならないのである。つまり、他所へではなく、律に停止すること。したがって澪の足音とはそうした肯定の響きであるのだ。律は、そうした肯定の響きである足音を聴いたからこそ澪を自室へ入れたのである。十一話のこの場面は、律と澪の互いを肯定しようとする意志が充溢している。ここにも「けいおん!」の肯定感がにじみ出ているのだ。

 そして、映画の最後、唯、澪、律、紬の足を延々と映す長回しは、単なる四人の感情表現として受け取ってはならない。その次のカットが空間と空間をつなぐ構築物である橋の上であったことを思い出すなら、間違いなくこの足のカットは、高校から大学への移動の表現なのである。



 終章



 「けいおん!」は停止と移動という二つの主題によって織り成されている。たしかに「けいおん!」は停止という主題が存在するかぎり、日常系に分類されるアニメだ。しかし、その停止のほかに移動という主題が導入された結果、そのほかの日常系作品には似ていないまったくの例外的作品になっているのだ。それゆえ「あずまんが大王」や「らき☆すた」などの作品と簡単に同一視することなどできない。しかし、東浩紀宇野常寛を代表するゼロ年代の批評家たちは、日常系アニメのブームについて様々な理由をつけて説明しようとし、その結果、「けいおん!」のこの逸脱ぶりをとらえることができなかった。結局、彼らに関心があるのは、作品単体(テクスト)ではなく、歴史的コンテクストにある。そういったコンテクストに作品を回収し、整合性を合わせる過程で作品にある様々な細部を殺す。さらにそのような連続的に見せかけた歴史的コンテクストから、オタクや社会までも論じてしまう。なるほど社会批評は今に始まったことではないし、一つの批評としてはそれなりに存在価値があるのかもしれない。しかし一方で、彼らの語るオタク論(男性視聴者しか念頭に入っていない)がオタクに対する差別を助長してしまった感は否めないし、また、作品を、例えば排除の論理のような言説から語ってしまった結果、作品が歪められてしまった。その代表的な作品が「けいおん!」なのである。

 例えば、男性キャラが排除されていると言われるが、では、彼女たちは一度でも、男性キャラを排除しようとしたのだろうかという疑問がまず浮かぶ。結局彼らは作品の外のオタクだけを見ており、作品の中のキャラクターの心理を見ていないのだ。また、物語が排除されているとも言っているが、そもそも物語という言葉自体が多義的だ。わざわざ述べるまでもなく、今まで数えきれないほどの物語論古今東西問わず出されてきた。そんな論者によって定義が異なる物語という言葉に依拠して、簡単に「けいおん!」には物語がないと断言してしまうのは、果たして批評家として正しい態度なのだろうか。しかし彼らの影響で、序章で紹介した、「けいおん!」を日常系アニメの代表的作品と誤認識した書籍「”日常系アニメ”ヒットの法則」では、「それに対して、日常系作品はというと、「大きな物語ではなく、短いエピソードの連続によって」描かれる構造は、たとえ1話くらい見逃しても大きな支障はないし、何なら、放送開始から数話を経てからの”途中参加”の敷居も低い」などとまた誤った指摘をしてしまっている。たしかに「けいおん!」は、基本的には一話完結式の構成になっている。しかし見逃してはいけないのは、そこには各回を貫く時間が無常に流れている点だ。途中参加の敷居が低いのだから、非連続的に、そして断片的に見てしまっても作品が楽しめると言うが、しかし、例えば第一期十一話のようなけいおん部が直面した困難な事件や、第一期第二期のシリーズのひとつのクライマックスを飾る学園祭ライブでの彼女たちの挑戦は、各回で描かれるキャラクターの交流やドラマの積み重ねがなければ感動の大きさは味わえないし、それゆえ面白さは変わるのだ。たしかに「けいおん!」には従来の音楽映画や音楽アニメのような特有のドラマが描かれていない。しかし、本当にそんなありきたりな物語を描いて面白いのだろうか。むしろ、そういう陳腐な物語に陥らなかった点を評価すべきではないのか。

 小津安二郎のように、日常系アニメも決して否定的な要素によって成り立っている作品ではないし、また何かを否定せよとも主張していない。そして、「けいおん!」は日常系アニメのなかでも例外的な作品なのだ。このように、ゼロ年代の批評家が誤って評価を下してしまった作品群を再評価することこそがゼロ年代から四年たった二〇一四年現在、為すべき仕事ではないだろうか。

停止と移動ー山田尚子「けいおん!」ー 1/2

 

    停止と移動ー山田尚子けいおん!」ー

 序章



 社会論の相貌を持つ批評、または評論が多く書かれたゼロ年代。しかしそれは、作品を自身の単線的な歴史観に回収する作業でしかなく、連続的で整合性のとれた正しい歴史から見るそうした歴史的観点で、作品の価値を決定し論じるという、言わば自分語りでしかなくなってしまったといえる。そうした全体的な視点は、個々の作品の多元性や本来の豊かさを無視し、各作品の差異を気づかなくさせる。また、ジャンルにカテゴライズする作業に邁進するせいで、流行による価値の範例化から逸脱した作品を見ない。本稿では、批評家を具体的に名指しして批判するメタ批評のかたちをとらない。そうではなく、社会批評により作品の豊かさを見えなくさせられたアニメ「けいおん!」の救済のための作品論である。しかしそうした作品論という形式を維持しつつも、結果的には社会批評への批判と読める批評になるかもしれない。

 「思想地図Vol.4(2009)に掲載されている東浩紀宇野常寛黒瀬陽平氷川竜介山本寛の座談会では、まともに物語を語ることが不可能になってしまった現在の閉塞感を打ち破るためにアニメーションの未来を語るというテーマのもと、様々な議論を繰り広げている。そのなかで氷川は、「けいおん!」について言及し、
 「僕は、『けいおん!』を見て驚いたことが二点ありました。そのドラマにおけるコンフリクトの不在ですね。そしてもう一点が、女の子しか映っていないこと。あるとき「『けいおん!』の学校って女子高なんですか?」と聞かれてどきっとして」
 また、
 「好きな女の子だけあれば、もはや葛藤もいらない、特訓もいらない、努力もいらない。ものすごいアニメの構造だと思いました。ウケている理由は、たぶんその排除の仕方が究極的だからではないかと思います」
 と発言し、「けいおん!」という作品をあたかも排除の上で成り立っているアニメとして認識している。この氷川の発言を四人は特に否定せずに、むしろ共通の認識としている感がある。さらに東の

 「近景しかない、敵がいない、ドラマもないという『けいおん!』の徹底したミニマリズムこそが時代の最先端であると結論でしょうか」
 というこの結論も、また、否定されずにいる。こうした徹底された排除にしたがってけいおん!は作られたという認識は果たして正鵠を射ているのだろうか。また、この座談会で宇野は、大きな物語が機能不全に陥り、小さな物語(断片)を統一させずに混在させて成立しているアニメを新しい想像力を生み出す突破口とし、その意味で「らき☆すた」、「けいおん!」などの日常系アニメや「コードギアス」を肯定的に評価しているのだが、しかしこの是非はともかく、こうした「けいおん!」を「らき☆すた」と安易に同一化することも果たして正確に「けいおん!」という作品を捉えていることになるのだろうか。この議論がいささか歪なのは、排除の上に成り立っているからこそ、現代思想的に正しい作品だと評価されてしまっている点だ。「けいおん!」には物語は希薄で、男性キャラもほとんど登場していないし、またコンフリクトもほとんどないのは事実だろう。ただ、作中の登場人物の心理や、演出、そして毎話毎話繰り返し反復される主題などの重要な点を無視し、あくまでもそういった排除の論理に作品を還元し、それで「けいおん!」を語ってしまう気になってしまっているのこの現在の状況は、いささか違和感があるのも事実なのだ。また、この思想地図で行われた議論だけではなく、「”日常系アニメ”ヒットの法則」(2011)なる書籍でも「けいおん!」をほかの日常系アニメと同じように「排除の論理」の上で日常が描かれてあり、それゆえ日常系アニメの代表的作品であるかのような記述がなんのためらいもなくなされている。
 「物語の排除」、「コンフリクトの排除」、「男性キャラの排除」などのような、様々な要素の排除によって日常系アニメは成立しているといともたやすく断定され、そしてその一例として「けいおん!」という作品が議論の俎上に載せられる。問題なのは、先述したとおりどれもが、「けいおん!」で描かれる日常を、恋愛もしない対立もしない単なる記号と記号の戯れであり、そういう要素だけを見て、例えば「あずまんが大王」や「らき☆すた」に明確な違いなどないと認識しこれらの作品と同一視してしまうことである。しかしこの「排除の論理」の言説は、多くの人に支持されているのか、現在未だに影響力を保ち続けている。また「排除の論理」が、「けいおん!」の批判の根拠にもなってさえおり、例えば、オタクの欲望に忠実に沿った作品であると決めつけるだけでなく、そこから「けいおん!」のファン(実際は様々なメディアに紹介され、映画が十九億円ものヒットを飛ばし、ほとんど社会現象にもなっている作品であるため、「けいおん!」のファンだけが消費している作品ではないのは明らかなのだが)への差別的ともいえるような批判を助長させてしまっているともいえるのである。
 ここで思い出すのが、小津安二郎の存在である。小津は蓮實重彦が著書「監督 小津安二郎」で指摘したとおり、様々な否定的言辞による評価を受けてきた。「キャメラが動かない」、「キャメラの位置も変わらない」、「愛情の激しい葛藤が描かれない」、「物語の展開は起伏にとぼしい」、「舞台が一定の家庭に限定されたまま、社会的な拡がりを示さない」などの否定的言辞による評価は小津的な単調さという神話をかたちづくり、豊かな細部を排除しているとして蓮實は批判した。これらの否定的言辞はどこか「けいおん!」を覆う「排除の論理」の言説を想起させる。小津と「けいおん!」を安易に同一視するつもりはないが、作品を否定的に見てしまうこうした批評家の態度の不健康さはほとんど同じであると指摘できる。こうした言説が「けいおん!」を覆うだけならまだしも、そのまま重圧を加え続け、細部を、そして作品全体を圧殺してしまっている。しかし、「けいおん!」は小津と同じく決して排除などという否定的な要素で成立している作品なのではなく、むしろみずみずしい肯定感があふれるアニメなのだ。それは、様々な雑誌のインタビューで語っていた山田尚子の、私は世界を肯定したいんですという言葉に表れている。

 けいおん!」という作品は排除の上で成り立ってはいないし、また、この作品には、日常系アニメという枠組みに簡単にとらえきれないほどの逸脱が見られるのだ。今まで語られなかったこういったことを、本稿では詳細に論じてみたいと思う。

1 停止と移動

 

 山田尚子は女性監督らしく「けいおん!」に物質的とも言えるようなある生々しさを表象した。キャラクター造形や些細なしぐさなどに女子高生的なリアル感(むろんそれは錯覚でしかない)の意識、また光やほこりの表現、そしてカメラの揺動などに見られる実写感への追及はそれを実証づける。とくにカメラの揺動は手ブレのような揺れであり、映画のAパート冒頭でそうした撮影処理が多様されている。そうした女の子のリアルで実写的な日常性の描写はどの日常系アニメとも似ていない。しかし、「けいおん!」の突出性はそういう演出的なところだけではないのだ。

 「けいおん!」の始まりが、主人公である平沢唯が作品の主な舞台である桜が丘高校への入学と、けいおん部に入部するところからであるということを思い出そう。それ以降、第二期の最終話までずっとその内部空間に、唯含めけいおん部のメンバーは居続ける。彼女たちはふいにどこかへ転校することも、死んだりもしない。たえずその空間に居続ける。ところで、空間は重要なファクターである。実際に実在する学校をモデルにした高校と、その高校の音楽準備室という軽音楽部の部室という空間は、まるで一人の役者であるかのような存在感を放っている。一話一話かならず登場するその二つの空間がなければ「けいおん!」という作品は考えられないし、また作れない。そうした空間に彼女たちは居続ける。この居続けるという”運動”を停止ととらえよう。停止しなければ「けいおん!」の物語は始まらないのだ。そしてこの停止という運動は様々な表情を有し、ひとつの主題としてこの作品をかたちづくっている。

 しかし、なにもこの停止の主題によって作品を織り成すのは「けいおん!」だけではないことは注意しなければならない。停止はそのほかの日常系アニメにも通ずる主題なのである。その内部空間のほとんどが「けいおん!」と同じ学校であるのだが、しかしそれ以外にも特徴的な内部空間もあり、例えば「苺ましまろ」の伊藤千佳というキャラクターの自室、「ひだまりスケッチ」ならばそれは主要登場人物たちが暮すひだまり荘というアパートなどがある。これらの作品もそうした空間なしでは考えられないほどの存在感を放っており、そして作品の世界観の形成に大きく寄与してもいる。日常系アニメ的キャラクターは、そうした空間に停止し日常を謳歌する。いま、という青春期に、ここ、それぞれの作品の固有の内部空間に停止すること。そしてそれは一人ではない。ほかの仲間とともに停止する。そうした仲間を受け入れ、そして受け入れる自分を肯定することの身振りを演じ続けていることを無視し、日常系アニメを、何かの排除のうえで成り立っているという、そうした否定的な見方をして論じること、また、そうした排除の仕方を現代思想に絡めて論じ社会反映論に陥ることで、ますます作品から離れて行ってしまうことは避けねばならない。

 ところで、「けいおん!」には移動も主題として浮かび上がる。停止の言わば対義語である移動は停止するための”運動”である。停止するためには、停止するための内部空間の発見と、そこまでの距離を埋めなければならないのだ。山田尚子が優れているのは、この主題を導入したことだ。それにより「けいおん!」という日常系アニメは、そのほかの同ジャンルの作品にも似ていない極めて特殊なアニメになった。先述した「けいおん!」の一話の唯が、軽音楽部に入部するまえに、そして学校へ入学するまえに移動していたことを思い出そう。それくらいの運動ならばどの作品にもあると言うかもしれないが、もちろん移動の主題が表れているのはそれだけではない。だが、移動の主題の詳細はまず、停止の主題を論じてから述べることにする。

 「けいおん!」は停止と移動というふたつの主題が織り成す日常を描いた画期的なアニメである。この作品で表象される日常は、どんな日常系作品、例えば「あずまんが大王」や「らき☆すた」などで表象される日常とも似ていない。停止と移動というふたつの主題によって織り成される「けいおん!」という作品を、しばしば日常系アニメの代表作として取り上げ、ほかの日常系アニメといっしょくたにすることは誤った認識であると私は思う。



2 停止



 彼女たちは様々な空間に停止する。その空間とは部室であり、教室であり、自宅であり、講堂であるだろう。停止が主題のひとつとして物語が進行している以上、空間、場所が重要な意味を持つ。そのなかで彼女たちが日常的に停止するのは言うまでもなく部室であるのだが、この場合の停止とは居住の意味がある。なぜ居住の意味になるのかは、まず部室とはどのような空間であるのかを見ればわかるだろう。

 けいおん部の部室である音楽準備室は部の練習のためにある空間ではない。けいおん部は本来の部室の用途からかなりずれてその音楽準備室を使用している。そこは間違いなく彼女たちけいおん部の家に近いような場所になっており、部室という家で毎日(第二期一話で唯が言ったように)お茶ばかりをする。学校ではそういった私物は持ち込めないのが普通である。そうした学校の規則から逸脱した勝手なこの行為は、部室を完全に私物化する行為であり、その結果この学校のなかでかなり異質な空間になっている。

 この部室の私物化は、紬のティーセットの持ち込みから始まっているのだが、しかし、何故彼女はティーセットを持ち込むようになったのだろうか。考えてみれば、この作品の世界観を決定づける重要な行動であるはずなのに、また、その原因を直接的に描かれた描写はないという異質の事態なのにもかかわらず、この紬の謎のティーセットの持ち込みを論じられたことは今までなかった。こうしてみると、やはり「けいおん!」はいまだ知られていない作品であり、それゆえ語り終えてない現在進行形に生きている作品なのだ。彼女のこの行動の動機は原作の漫画でも明らかにされていない。こうした事態に人は今までなぜ驚かなかったのか。ここにも「けいおん!」の不幸が垣間見えてしまいいささか辟易してしまうが、しかしそれにしても、この彼女の唐突ともいえるティーセットという私物を持ち込む行為の解明のヒントはまったくないのだろうか。それはおそらく、その前ファーストフード店で部員集めの作戦会議をするシーンにあるだろうと私は推測するまだ唯が入部するまえ、澪、律、そして紬が部員を集めるために話し合うこのシーンでは、紬の今までファーストフード店に来たことがなかったほど家がお金持ちであるという人物設定が明らかになる。そうした人物のため、そこでの作戦会議を律と澪とは違ったかたちで受け止めているのは明らかだ。つまり彼女は楽しんでいるのである。そうした今まで来たことがなかったファーストフード店への来店とそこでのおしゃべりはまったく未体験な出来事として感じているはずだ。そうした経験が、この場面のような楽しいおしゃべりをどこかの場所でも求めたいという彼女の思いを抱かせたのだとしたらつじつまが合う。このファーストフード店での作戦会議の場が、いわば部室でするお茶の前身なのだ。ティーセットの持ち込みとは、紬のけいおん部のメンバーと楽しくおしゃべりしたいという願望の表れなのだ。またさらに、第一期四話の、普通にしたいという彼女のセリフを思い出すならば、彼女はお金持ちの家に生まれた令嬢としての自分の立場に不満を抱いていたことがわかる。部室とは自宅からの、今までの生活からの逃避場所であるという認識もまたつじつまが合うだろうと思うつまり、紬は裕福な家庭に生まれ、(言ってしまえば)庶民の生活にあこがれを抱いていた。そして、ファーストフード店でのシーンを契機に、そうした女子高生らしい(これもまた庶民的といえる)日常を求めたいがために、紬は部室を家からの逃避場所として設定し、ティーセットを持ち込んだのである。

 しかし、たとえ紬にとっての部室が、お金持ちの自宅からの逃避場所だとしても、けいおん部全体にとっては複数の人物たちによる共有される空間である。そういう空間にともに居ること、共存すること。そこには、互いを認め合い、肯定しようとする意志がある。この部室内での共存は重要で、言うまでもなく停止の主題なのだが、作中で何度も何度もほとんどのメンバーが停止することができない事態にも襲われるのだが、これは移動の章で語られることになるだろう。

 また、彼女たちはその相互主観的な空間にただ居るだけではない。彼女たちの停止は空間の創造行為をするようになる。それはティーセットだけではなくぬいぐるみなどの様々な私物を持ち込み、ホワイトボードに落書きをし、スッポンもどきという亀を飼う。創造された部室は間違いなく地理学者エドワード・レルフのいう実存空間にほかならない。「さらに、実存空間は単に体験されることを待っているような受動的な空間ではなく、人間活動によって常に創造され作りかえられている空間である」(エドワード・レルフ「場所の現象学)。しばしば、「けいおん!」には実存の問題を扱っていないという評価を見受けられる。先の思想地図での座談会でも、黒瀬は次のような発言をしている。

 「現在から振り返ってみても、九十五年からゼロ年代初頭くらいまではやはり「旧エヴァの影響を受けて、実存の問題をストレートに扱った作品が多くつくられ、様々な実験がなされ、そのなかから優れた作品が生まれていたということですね。それに比べれば、「らき☆すた」や「けいおん!」といった口コミ話題作は、たしかに、実存の問題を直接には扱っていない。むしろ、正面切って実存の問題を扱うことができない不能感というか、強烈な諦念を前提につくられているように見えます。」

 しかし、第一期の唯の、場所の発見という(つまり部室に停止することの)テーマは果たして実存的な問題と言えないのだろうか。自らの場所を発見することと、そしてかかわることは実存に深く関係しないとは到底言えないと私は思う。哲学者ハイデガーは、場所は、人間の実存における外部の絆と、人間の自由と実存の奥深さを解き明かすことによって、人間を位置付けると言った。都市も田舎も没場所的になりつつある現在において、生きられる空間などほとんどない。だがしかし、どんな無機質で、単なる幾何学的でしかない空間でさえ、そこで経験される様々な出来事を通してそれが思い出となり、いつしか自然とわれわれはそのような空間でもトポフィリアを抱くことがある。そうしたトポフィリアは自分の存在にとって大きな意味を持つ。自分が存在できる場所の発見は、自身の実存の問題といえるのである。事実、第一期の唯のテーマがそれではなかったか。最終話で講堂へ向かう唯のセリフを思い出そう。彼女は、今までとは違う自分になれる場所、存在できる場所を一話から探していたのである。また、第二期十六話の梓は自らのアイデンティティの危機に悩んではいなかったか。これらはすべて部室が関係している。部室がなければ、今の自分たちはいない。そして、そんな部室の役目に感謝するようにして二十三話で彼女たちは卒業前に掃除をしたのだ。たとえそこが三年しか居られず、そしてその後誰かが住まうことになるとしても、部室は彼女たちけいおん部にとっては重要な場所なのである。



2-1 様々な停止



 日常系アニメ、とくに「けいおん!」では、登場人物の場所とのかかわりによって日常が描かれる。そうした日常は登場人物たちのトポフィリアが土台となっているという指摘は可能だろうと思う。実際、部室が使えなくなることが描かれる第二期の十七話で、彼女たちは初めて部室へのトポフィリアに気づく。「大切なものを失って初めてそのありがたみがわかる。」という唯のセリフはそれを実証づけるだろう。「けいおん!」にあって部室に停止するということは、住むということ、つまり停止は居住という意味になっていると言える。部室とはけいおん部の家なのである。

 ところで、「けいおん!」にあっての停止という身振りを、机が象徴しているのは興味深い。彼女たちの停止は、内部にあって外部にないこのオブジェによっていくつかの表情を見せている。ここでは主に部室と教室という二つの空間の机の表情を論じたい。

 まず、部室に配置されている机は、戯れの場としての表情を持っていることが指摘できる。作品を見ていれば、彼女たちは机を合わせお茶を飲みながらお喋りする場面をすぐさま思い浮かべられる。しかしそうした机の使い方は本来の用途ではない。彼女たちは部室の私物化と一緒に、また机も私物化しているのだ。つまり部室内での机は、彼女たちの談笑のためのテーブルに逸脱しているといえる。では教室はどうだろう。教室での机は、第一期三話と第二期九話を見れば、本来の用途に沿って、ちゃんと勉強机として配置されているのがすぐさまわかるだろう。教室は部室と比べて公共性の強い空間なのだ。しかし、そんな教室に置かれている机も映画になるとかなり逸脱するようになる。ロンドン旅行が終わったあとで行われた教室でのライブシーンのときに、机が舞台の役割を負っているのである。

 以上で、机は三つの表情を持つのがわかる。戯れの場としてのテーブル、本来の用途に沿った勉強机、そしてライブの舞台。これらの表情は、「けいおん!」の停止の動作を簡潔に示している。そう見ると停止は単なる単調な動作ではないのは自明だ。彼女たちは練習せずに戯れたりはするが、先述した第一期三話と第二期九話、また、第一期六話、八話、十二話、第二期一話、七話、二十話を見るかぎり、勉強とライブ、つまり試練としての意味も含んでおり、彼女たちは戯れているばかりとは決して言えないのだ。



2-2 空間同士の衝突

 

 ところで、部室と教室は奇妙な関係を持っている。これまでなんの問題もなく続いていたその関係は、けいおん部のメンバーがそれぞれ同じ教室に所属していない場合、緊張状態に陥りやすくなる。それを表す話数を指摘すると、第一期六話と、第二期十八話、十九話である。この三つのエピソードで共通するのは学園祭の話であるということだ。学園祭はけいおん部のこれまでの集大成的イベントであると同時に、クラスの出し物のイベントでもある。ここで彼女たちの抱える二重性が前面化され、緊張状態に陥る。つまり、部室に停止する者だけではなく、教室にも停止する者でもあるために、部室と教室の二つの空間が対立するのだ。先にあげた三つのエピソードでは、けいおん部のメンバーがクラスの出し物のために部室へは行けなくなり、教室に拘束される。正確には、第一期六話は澪はライブの練習のために三人を訪れるのだが、唯、律、紬の三人が教室に拘束され、なかなか練習ができないのが描かれているし、また第二期の十八話と十九話では、今度は梓がライブの練習に専念したいと思っているのに、上級生の四人は、出し物の劇のために教室に拘束され、この二つの回でも、なかなか練習ができなくなっている。ここで、十八話の律と澪が部室から出るときに扉の開閉の動作を演じているカットがあるのだが、この動作は、移動の主題が色濃く出ており、これについては後で述べる。

 この部室と教室の対立、衝突により彼女たちは引き裂かれる。教室に拘束されていない者(澪、梓)はそこで悩みはするのだが、しかしメンバーとは対立しない。ここに肯定の身振りがある。空間的に衝突はしていても、彼女たちは衝突しようとはしないし、その素振りすらも見せない。そうした態度を、コンフリクトの排除であると表現せずに、彼女たちがかもし出す、けいおん部のみずみずしい肯定感とまず表現すべきである。先行する音楽映画や音楽アニメと比較して、バンドのメンバーと衝突するのが一般的な展開だという安易なレッテル張りは慎もう。むしろ、そういった通常の音楽ジャンルに当てはまらず逸脱する彼女たちの行動を、彼女たちと同じように肯定するべきだ。そういった、単線的な歴史に当てはもうとすることで、作品の評価を歪めてしまうことは断じて許されない。「けいおん!」という作品は音楽ジャンルから突出したアニメなのである。

 

「CONVERSATION AVEC JRG」~JRGとの会話

 来年の一月に公開されるジャン・リュック・ゴダールの新作「さらば、愛の言葉よ(Adieu au Langage)」に合わせて、この記事では2010年にピエール=アンリ・ジルベールとドミニク・マイエが行ったゴダールへのインタビューの中でこの映画に関する彼の言及があったので、短いが掲載したいと思う。

 

ゴダール(以下、JRG)「(フォーエヴァー・モーツァルトの)最初の脚本は違ったんだ。タイトルは最初から決めてあったが話の内容は違った。よくレコードを送ってもらったドイツの会社の話だったな。音というのは・・・、普段私はほとんど音楽を聴かない、何かを探す場合も音より本や映画に頼ることが多い。だが、ある種の音はよく・・・、ECM社(※注 ドイツ(当時の西ドイツ)で1969年に設立されたジャズ系レーベル。)のレコードを見つけたんだ。そういうことだ。(もともと)込み入った話を作ろうとしていたんだが、結局あきらめた。1人の兵士の話だ。作曲家A・ヴェーベルンを殺したアメリカ人兵士だ。A・シェーンベルクの弟子の音楽家だ。戦争が終わった直後のウィーンでヴェーベルンは占領軍のアメリカ兵に射殺された。私のアイデアは兵士が自分のいわば”大罪”の場所に戻ってくるというものだった。そこで彼は・・・、誰かと再会する。当時、好きだった女性か誰かと再会するんだ。映画の批評家・・・、いや音楽の批評家も登場する。そして彼らはモーツァルトを聴きに行く。話しているうちに批評家はこの兵士がヴェーベルンを殺した男だと思うに至るわけだ。それが数年後、同じタイトルの別の映画になった。モーツァルトの演奏は同じ形で映画の中に残ったけどね。」

ピエール=アンリ・ジルベール(以下、PHG)「映画におけるあなたと音楽の関係を教えてください。音楽に関する作品もありますし・・・、あなたにとって動詞とは音楽であるという印象を受けますが?」

JRG「音楽は私にとって言葉の一部だ。ちょうど次の映画のタイトルを決めたところだが、「Adieu au Langage(言語よ、さらば)」だ。皆、言語を持っていると思っているが、実際に言語を持つ者は少ない。例えば動物には言語がないと思われているが、彼らは別の方法で言葉を交わしている。YouTubeにネコの動画があるが、「ゴダール・ソシアリスム」でも2匹のネコが鳴き合うシーンがある。2匹は明らかに会話しているんだ。「ブヴァールとペキュシェ」とはいかないがね。

 我々が知っている単語を使うには言葉とイメージが必要だ。そして、その全体を”言語”と呼ぶわけだ。非常に高いレベルでの話だね。次に文章が来て、次に”言う”ことが来て、そうしてつながっていく。人々の間にあるのは”言語”ではなく”言うこと”だ。その土台は別のものだ。”言葉”ではなく声だ。言葉は別物で、例えば精神分析や何かで使われるものだ。言葉とイメージが一体化して言語が生まれる。つまり言葉は姿を変え社会になる。「Adieu au Langage」とはー、”こういう話し方は終わりだ。別の話し方を(しよう)”という意味だ。(つまり)”言葉を試そう”だ。”我々の間にある言葉を感じよう”だ。”買い物をする”、”映画を観よう”、”君は最低だ”、自然に出てくるが、これらは”言語”ではない。

 映画に登場するのは2人の人間と2人が交流を持つ1匹の犬だ。犬がそう感じさせているんだ。だがその後、”無理解”が発生する。口論ならいつか和解できるが、そうはいかない。たった3秒で起こり得る。映画も3秒だ。問題は、3秒の映画に、30万ユーロは要求できないことだ。」

PHG「確かに言語について伺うと映画の言葉を想像しますね。」

JRG「少しずつ近づ(いてい)くんだ。私は文学をかじっているからね。もしタランティーノを批判するとしたら・・・、彼は文学的すぎるということか。しかもアメリカ文学だから私とは下地となるものが違うよ。」

 

この文章は以下のDVDBOXに収容されている冊子から引用しました。

 

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愛を伝えるということと暴力を振るうということの身振り―重量をかけるということ―

honey and clover mayama & yamada romantic ...

 「ハチミツとクローバー」というアニメ/映画がある。これらの作品の中で、上のような、山田あゆみという人物が真山巧という人物に告白するシーンがあるのだが、これが極めて興味深いものとして私には映る。このシーンは、山田は、真山が自分ではなくほかの女性が好きだということがわかっており、絶対に叶わない恋だと知りながらも、彼への気持ちが抑えきれず、そうした複雑な思いに泣きながら自身の気持ちを伝えるということが描かれている。このシーンの秀逸なところは、そうした告白を山田が真山におんぶされる姿勢にさせたところなのだ。おんぶされるということは、自身の重量を相手にかけるということであり、そして相手はその重量を受け止めるということでもある。こうした重量をかける/重量を受け止めるというおんぶの姿勢は、そのまま、思いを伝える/受け止めるというそれぞれの心理の視覚化だと言えるのである。山田の好きという思いの重しを、真山はそれには応えられないけれども、うんと頷きながらその思いの重しを受け止めるのだ。

 こうした相手への愛を、重量をかけるという姿勢で演出されるのはなにもこの作品だけではないということは言うまでもない。そもそも、フィクションだけではなく、現実でも、相手への思いを重しとして重量をかける行為を誰しもがやるはずだ。キス、抱擁などがそれにあたるが、しかし一番視覚的にわかりやすく、且つその愛の強さを確認できるのは、それらを複合させた行為であるセックスであるのは言うまでもない。また、もしくはセックスは一方向的にではなく、互いに重量をかけ合う行為であるともいえると思う。

 重量をかけるということ。そうした行為は相手への愛を伝えるもっとも簡単な表現である。しかし、重量をかけるということはなにも愛という意味だけにはならないだろう。それは暴力という意味にもなりうるのだ。殴る、蹴る、投げ飛ばす、絞めるなどの暴力を体重をかけなければ成立しないのは自明だ。言わば、相手に自身の重量を勢いとともに押し付ける行為でも言えるのだ。

 例えば伝説的なカルト映画である「ありふれた事件」の、これもまた極めて秀逸なふたつのシーンを見れば、暴力が必然的に重量をかける行為であるということがわかるだろう。


Man Bites Dog Opening Scene Açılış Sahnesi - YouTube


Man bites dog "Family-Killer" (Mann beisst Hund ...

 また、これらのシーンには重量をかけるさいの勢いがあるが、しかし映画にはその勢いなどなくとも、それもほんの少しの重量さえかければそのまま暴力になりうるということを示す映画がある。ジャン・リュック・ゴダールの「気狂いピエロ」である。この傑作の映画では、アンナ・カリーナがガソリンスタンドの店員らを殺害するシーンがあるのだが、車のボンネットをはさむだけと、殴ると形容していいのか困ってしまうほど勢いが全くなく、ただ拳を胸に押し付けるだけという身振りで人を殺すという奇妙な描写がある。

Pierrot le fou Peugeot 404 Belmondo - YouTube

本来の映画ならば人を殺すという運動は活劇性が内在するものだが、このシーンにはそれがまったくない。非活劇的な人殺しという大変面白いシーンになっている。

 抱える感情が真逆でも、自分の重量を相手にかけるという点では変わらない。愛するという行為と暴力は紙一重なのである。今までは愛する行為と暴力をそれぞれ語っていたが、しかし、その愛と暴力というそうした矛盾を内包させた身振りを映画は描いてもいるのである。相手への愛が結果的に暴力になってしまうという倒錯した身振りを描いた映画と言えば、レオス・カラックスの「ボーイ・ミーツ・ガール」とセルジオ・レオーネの「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」が代表的だろう。残念ながら動画がなかったのでここに載せられないのだが、前者では恋する女性を抱きしめようとし、後者でも恋する女性にセックスをせまろうとするのだが、結果的にそれらの行為が暴力になってしまうのが描かれている。

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 カラックスの代表作であり、この一作で彼をゴダールの再来と言わしめた傑作「ボーイ・ミーツ・ガール」は、それぞれ失恋したアレックス(ドゥニ・ラヴァン)とミレーユ(ミレーユ・ペリエ)の出会いとその後の二人の関係模様が描かれる映画である。映画のラスト、失恋したミレーユ演じるミレーユ・ペリエは自室でその悲しみからはさみで手首を切るマネをする。そのとき背後からドゥニ・ラヴァン演じるアレックスが訪問してくるもののそれにミレーユは気が付かないでいる。またアレックスもミレーユが手首にはさみをあてていることを知らずにそのまま彼女を抱きしめる(つまり重量をかける)のだが、そのときの衝撃ではさみは彼女のわきばらを刺してしまう。助けてとつぶやくもミレーユは息絶え、アレックスは彼女を死なせてしまったことにただ悲しみに暮れるしかない、というところで映画は結末を迎える。このバッドエンド的展開は愛と暴力の混濁だと指摘することができると思う。つまり、アレックスの愛がミレーユを殺めてしまう暴力になってしまうのだ。

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 また一方レオーネの遺作であるギャング映画ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」では、主人公のヌードルス(ロバート・デ・ニーロ)が長年恋をしていたデボラ(エリザベス・マクガヴァン)を襲うシーンがあるのだが、このシーンもヌードルスのデボラへの愛がレイプという歪な暴力に結果的になってしまうのだ。

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 重量をかけるという身振りに注目することは愛と暴力に注目することだ。そしてその相反する感情が実は身振りから見れば極めて似ていることがわかる。これはとても面白いことだと思う。

溝口的登場人物たちの身振り

 立つこと。立ち続けること。溝口的登場人物たちにとって、それはとてつもなく困難である。例えば「雪夫人絵図」の木暮実千代が、足元がおぼつかずふらふらと芦ノ湖畔のホテルへ向かう姿を見ればそれは頷けるはずだ。彼女はその足取りのまま、テラスに座る。すると、カメラは雪夫人から、彼女に水を持って来ようとするそのホテルのボーイを追いかけ、右へパンする。そしてボーイが水を持ってきて、またカメラも彼を追いかけ左へパンする。しかし、カメラが再びテラスの席をとらえるとすでにそこには木暮実千代はいない。彼女はどこかへ去っていったのだ。ゆえに、われわれが眼に焼き付くのは、彼女の座り続けた姿だけである。木暮実千代が去っていったのは、芦ノ湖へ身を投げるためだとすぐあとでわかるのだが、しかし、われわれはそれを見ることができないのだ。ふらふらと歩き、テラスの席に座り、そしていなくなる。そういった、ほとんど亡霊のような木暮実千代をわれわれはただ見るだけである。

 芦ノ湖へ身を投げること。それはまた、地から離れることでもある。つまり、立つための地から、立つことができない水のなかへ身を投げることである。それは「山椒大夫」の香川京子も同様で、彼女もまた湖へ身を沈める。ここで注目すべきなのは、彼女は足袋を脱いでいることだ。地に立ち歩くための道具である足袋を脱ぐことは、地に立つことをやめる行為である。「楊貴妃」でも京マチ子は自殺するときに足袋を脱いでおり、「山椒大夫」の香川京子と共通している。ちなみに、母親を演じる田中絹代は、売春宿から逃避しようとした罰として業者に足の筋を切られるのが描かれているのを見逃してはならない。また、「近松物語」でも、香川京子と、長谷川一夫が湖へ身投げしようとするのが描かれている。そのさい足をひもで縛っているのも見逃してはならないだろう。

 溝口の映画では、女性が立っている姿で終わるのが少ないように思われる。「折鶴お千」では、山田五十鈴が発狂し、病院のベッドで横たわって映画が終わるし、また、「祇園の姉妹」ではこれもまた山田五十鈴がベッドに横たわり、あの物質的ともいえるような生々しい悲痛な叫びで終わっている。「滝の白糸」でも入江たか子は法廷の席に座ったままで終わり、「残菊物語」でも森赫子は病床に倒れて映画が終わっている。最後の、横たわる森赫子と船首に立ちお礼参りをする花柳章太郎という並行モンタージュは、立てない者と立つ者の対比のモンタージュであるだろう。男に、そして家父長制度に虐げられ、淪落し続ける溝口的女性たちのその横たわる姿は、敗北の姿勢であるのだろうか。そもそも、溝口が晩年まで徹底的に取り上げ、描き続けてきた娼婦という職業は、男と寝ることで利益を得る仕事である。「夜の女たち」でも「噂の女たち」でも「赤線地帯」でも女性たちは立たない。

 しかし、横たわることなく、なにがなんでも立とうとする女性もいる。その代表例が「雨月物語」の田中絹代であるだろう。侍に身ぐるみをはぎとられ、槍に貫かれるものの、泣き叫ぶ子供を抱えながらなんとか近くにあった木の枝を杖にして家に帰ろうとするのだ。結局彼女は死んでしまうのだが、しかし、霊となって最後まで子供を家に送り届け、夫である森雅之を出迎える。彼女の立ち続けようとし、そして歩き続けようとする意志が彼女をそういった例外的な役割を演じさせたのだ。また、先述した「山椒大夫」の田中絹代も、足の筋が切られても、なんとか「雨月物語」同様木の枝を杖にして海まで行き、子供たちの名前を叫ぶ彼女もまた立つことをやめない。だからこそ、息子である花柳喜章に出会えたのだ。また、興味深いのは「近松物語」の先述した香川京子花柳章太郎の身を投げようとする場面での、花柳の香川に愛の告白が彼女の足にすり寄せながら行ったことだ。その後香川は、死ねんようになったとつぶやく。これは果たして花柳の告白がそうさせたのだろうか。むしろ、今まで続けてきた考察から考えれば、足にすりよせる行為が彼女をそうつぶやかせたと言うべきではないか。

 ところで、横たわることが敗北の姿勢であると言ったが、しかし松浦寿輝は、「祇園囃子」では、横臥こそが強者の姿勢になっていると指摘している。彼は、溝口はひたすら権力空間で必ず弱者の地位に置かれる力学的存在としての女に関心を持ったにすぎないとし、「横臥の姿勢こそが存在に権力を賦与するのであり、周囲の人間はそれに屈しないわけにはいかないのだ。」と言う。この場合の権力を持った強者とは、浪花千栄子河津清三郎や小柴幹治などの虐げる側である人間たちのことで、むしろ虐げられる側の木暮実千代若尾文子らは横臥の姿勢でいる彼らをむしろ見下げるような姿勢になっており、高い位置と低い位置の構図が単純な上下関係になっているわけではないと松浦は言うのだ。

 溝口のこの立つことと横たわることの身振りに注目したのは松浦だけではない。1992年のユリイカの溝口特集のなかで、田中聡志もこの身振りについていくつか述べている。松浦が溝口の映画を権力空間として捉えていたのに対し、田中は商業的空間として溝口の映画を捉えている。「山椒大夫」の人買いによってさらわれる花柳喜章や香川京子田中絹代を例に挙げ、「つまり彼らは商品として売買と交換の場に引きずり込まれてしまうことになる。商品に成ること、あるいは貨幣と成ること。そうした要請が溝口の映画の登場人物たちを衝き動かしていると想像してみること・・・・・・」。商品、あるいは貨幣となった登場人物たちはむりやり商業的空間に参入させられるのである。そうした商業的空間で運動をやめること、つまり貨幣と成った登場人物の流通が止まることは死を意味すると彼は言う。田中は歩くことが貨幣としての流通であり、止まることが貨幣としての死であると、溝口的登場人物を捉えているのである。

 松浦も田中も、身振りから溝口の映画の空間性を論じている。溝口の映画は、政治的であり経済的な世界なのだということだ。ただ、松浦は姿勢にだけ着目していて運動を見ていない。また田中の商業的空間と捉える思考も、少々登場人物の感情のなまなましさを無視している気がしないでもない。貨幣として見るのは面白いが、そういったモノに還元できるほど、溝口が演出する人間は簡単ではないと思う。

  いずれにせよ、立つこと、歩くこと、そして止まること、横たわることで主張する登場人物たちの強い感情。そうした体全体で表されるエモーションを残酷にも役者から無理やり出させようとするのが溝口的演出なのだ。私は登場人物たちのエモーションを、権力空間でも商業的空間でもない空間のなかで捉え、考えてみたいとは思っているが、なかなか難しく思うようには進んでいない。

溝口健二「山椒大夫」とフェデリコ・フェリーニ「道」の奇妙な共通点

 1954年、二つの映画が撮られる。溝口健二監督「山椒大夫」とフェデリコ・フェリーニ監督「道」である。この二つの映画は彼らの代表作であるのみならず、映画史に永遠に刻み込まれる傑作だ。そんな映画が同じ年に撮られたという事実だけでも映画史の事件なのだが、この二つの共通点はそれだけではない。まず共通するのはどれも女が虐げられる物語であるというところだろう。「山椒大夫」では田中絹代が、「道」ではジュリエッタ・マシーナがそれぞれ家父長的な男にたえず傷つけられる。また、絹代もジュリエッタも、歌によって自らの存在を世界に残し、そして男主人公(花柳喜章、アンソニー・クイン)を自分のところへ導くという点も共通し、さらに二つの映画は海のシーンで終わるのだ。そして最後に、何の因果か、どちらもヴェネツィア国際映画祭でコンペティション部門に出品され、グランプリを争ったのだ。こんなにも二作が共通した点が存在するというのはどういうことなのか。これは映画史の不思議としかいいようがない。

 これを指摘している人間が少なくとも私には見つけられなかった。20世紀を代表する映画監督である溝口とフェリーニは、作風的には似ているところは少ない。唯一似ているのは娼婦にまで堕ちる女を撮ったこと(溝口のほとんどの作品がそうだろう。フェリーニは「カリビアの夜」などがある)と女を主人公にして映画を撮り続けてきた点だろうか。しかしそれ以外のほとんどまったく似ている要素を見つけるのは困難だろう。フェリーニにはワンシーン・ワンショットのような撮影はほとんどないし、溝口にもフェリーニのようなイマジネーションあふれる映像は撮ったことがない。にもかかわらず、「山椒大夫」と「道」は共通点がありすぎている。往々にして映画史というのものは、製作された時代も、国も違うのに、結果的に似てしまった映画が数多くある。たとえば、小津安二郎の「東京の合唱」とキング・ヴィダー「群衆」であり(「群衆」は「東京の合唱」よりも早く製作された映画だが、しかし日本公開はされていなかった)、イングマール・ベルイマンの「不良少女モナコ」と高畑勲の「火垂るの墓」であり、清水宏の「小原庄助さん」と北野武の「アキレスと亀」などだろうか。映画史にはある細部の表象が似てしまう不思議さがある。どの時代もどの国も人間の想像力は変わらないということか。